154 / 161

庭に咲く花、枯れる花(5)(side 真誠)

「え? 棄権? 棄権したの?」 凪桜さんの言葉にキョロキョロする。  折り返し地点に突っ立っているだけじゃ、まともな情報は入ってこない。  近くにいるご婦人が 「途中から歩き始めて、そのまま棄権したって話よ」 と教えてくれる。 「あー、そうなんですかぁ。残念だなぁ」 唯一名前を覚えた選手が棄権してしまったらしい。残念だけど、彼は今日、このレースで何がなんでも好成績を残さなければならない立ち位置ではない。もし今後のスケジュールや自分の体調を考えてのことなら、賢明な判断だろう。  その選手はとても頭のいい人で、インタビュー記事を読むだけでもその静かな熱意と論理に胸を打たれる。  この目で折り返し地点を走る姿を見たかったなと思ったが、応援する手段はこれからもいくらでもあるから、今日はほかの選手や凪桜さんを見て過ごそう。 「今日は寒いから、怪我も多くなりがちよね」 「そうですねぇ」 「ほら、あそこに大学の旗があるでしょ。卒業生を応援してるのよ。結構早く走ってくるはずよ」 「今年の駅伝、往路優勝してた大学ですね」 「そうよ、そう。……わあ、頑張れー!」 先頭を走ってきた外国人選手に一緒になって拍手を贈りつつ、俺は見ず知らずのご婦人の話し相手になっていた。  ご婦人もマラソン愛好家らしく、身につけているのは蛍光色のジャンパー、膝周りにステッチの入ったレギンス、ショートパンツで、手袋も嵌めていた。 「マラソンを観るの初めて?」 「ええ。彼に着いてきただけで」 凪桜さんはイヤホンでラジオを聴きつつ、スマホで情報を追い、走ってきた選手にカメラを向け続けていた。 「自分では走らないの?」 「全然縁がなくて」 「気持ちいいわよぉ。家の周りを散歩するところからやってみるといいわ。……ほら、折り返し地点を両手でタッチしていく選手もいるのよ。頑張れー!」 モニュメントというか、大会のエンブレムがついた柱に笑顔で両手でタッチしながら折り返す選手がいて、35キロ地点でまだ笑顔で沿道の人々に手を振る余裕があるのかと驚いた。  苦しそうな人よりも、黙々と走る人、笑顔で走る人のほうが圧倒的に多い。 「折り返し地点の走り方は個性が出るでしょう? 大きく外側をまわって速度を落とさないようにする人と、内側を走ってもう一度速度を上げていく人と、得意不得意もあるの」 「なるほど。あ、あの選手は大きく外側を走っていきましたね」 「彼は折り返し地点は苦手で外側を回るタイプなの。でも雨に強いから、今日は好成績が期待できるはず」 「え、雨が降るほうがいいんですか」 「そう。そういう選手もいるのよ。体温が上がり過ぎなくていいとか、そういう理由でね」  気づけば帽子だけで傘をさしていなかったご婦人を自分の傘に入れ、一緒になって選手へ拍手をしていた。 「ほら、あの子よ。大学の! 今は実業団だけどね」 その選手が走ってくると、誰かが大学名を声高に叫び、旗が揺らされて、たくさんの拍手も聞こえた。  小説を書くときの何か役に立つかな、という程度の好奇心だったけど、どことなく平野レミに似たご婦人のおかげで、ずいぶん楽しく観戦できた。 「よし、行こう」 頷きながらイヤホンを外し、スマホをしまう凪桜さんに促され、俺はご婦人と握手を交わして別れた。 「凪桜さん、本当にもういいの? お目当ての選手は応援できた?」  凪桜さんは頷いている。 「もっと観てていいのに。春庭の時間なんて気にしなくていいんだから!」 何ならうっかり閉会時間までここにいたっていいのに! 「イチコちゃんとニコちゃんに会いたいし」 凪桜さんは微笑んで駅に向かって歩き出したけど、本当にそういうお気遣いは無用だから!  春庭、行くの? 行くの? 行くの?

ともだちにシェアしよう!