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第5話 椿〈前〉
――約三十年前。
「え、今何て?」
居酒屋の一角、騒がしい店内で枝豆に手を伸ばしていた岳嗣は黒々とした瞳を見開かせて隣に座る男を見た。
「うんだからね、僕今度結婚するから君にも紹介しようと思って」
まるでただの世間話のような軽さで言ってのける霞に岳嗣は暫し思考が追い付かない。霞がおちょこを傾けながら何事か喋っているが、霞の発言を脳内で噛み砕いている岳嗣には聞こえていなかった。
「政略結婚?」
結婚なんて霞から一番縁遠いものだと思っていた。だから霞の言葉が信じられず眉を顰める岳嗣に霞はからりと笑ってみせる。
「いやいや恋愛結婚。設定ではね」
「設定」
灰色がかった薄茶の瞳が柔らかく細められる。
いっそ普通に誰かと想い合って結婚してくれた方が気が楽なのに、この男は中々どうして安心させてくれない。
新潟駅最寄りのレストランに入ると通された席には既に着物姿の美女が座っている。親し気に声を掛ける岳嗣に対し彼女もまた黒目がちな目を柔らかく細めた。
「久し振りね、岳嗣君。元気だった?」
「ええ、椿ちゃんも変わりないようで何より。相変わらずお美しい」
「ふふ、お上手なんだから。――かなで君、何にするか決まったかしら?」
「僕、ハンバーグにする~!」
きゅるんとした笑顔で猫撫で声を出す少年を岳嗣は一瞬物凄く怪訝そうな顔で見下ろすも、その表情はすぐに取り繕われ何も知らない椿と微笑み合う。かなで、とは彼が自ら名乗った名だ。流石にこの人の前で『霞』だなんて名乗れまい。
『会いたい人達がいるんだ。君には彼らにコンタクトを取ってもらいたい』
今朝少年は岳嗣にそう言った。
そういう事は当日ではなくもっと早くに言ってくれと頭を抱えたものだが、急いで電話を掛けると何とか彼の希望を叶える事に成功したのだから褒めてほしいものだ。
目の前でしずしずと紅茶を飲む彼女の名は白岡椿。霞の妻だった人だ。
岳嗣よりひとつ年上の筈だが、彼女の可憐な少女のような美しさは依然衰えず未だ三十代のようにも見える。艶やかな黒髪は鎖骨の高さで切り揃えられ、小花が散りばめられた辛子色の小紋は彼女の優しい人柄を映しているかのようだった。
「急に呼び出して悪かったね。たまたま用事があったものだから久し振りにランチでもどうかなって」
「誘ってくれて嬉しいわ。今日は近くでお稽古があるのよ。柑奈ちゃんも来れたら良かったんだけど」
「いやーやめて、柑奈ちゃんに会ったら面倒臭い事になるから。連れて来なくて良かったよ」
まあ、と椿はくすくすと小鳥が囀るように笑う。
華道家の家元として活躍する椿は多忙だ。今日も近隣の会場で生け花の講師の仕事が控えているらしいが世界を股にかけて活躍する彼女がここにいる事自体奇跡だろう。
柑奈は椿の親友であり岳嗣の実姉だ。元々姉の親友として椿を知っていた為、かつて霞が椿を婚約者として紹介してきた時には度肝を抜いたものだ。
以来椿とはそれまで以上に友好的な関係が続いている。霞が死んだ今もこうして時折顔を合わす位に。
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