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第6話 椿〈後〉
ちょっとトイレ、と言って少年が席を立つと、その背中をじっと見つめた椿が徐に岳嗣の名を呼んだ。
「あの子、どなた?」
「さっきも言いましたけど知人の子ですよ」
「それはもういいの。――かなで君、霞さんとそっくりなのね」
心臓が止まったかと思った。
そんなに、見てすぐ分かるものなのだろうか。岳嗣でさえすぐには気づかなかったと言うのに。
「ねえ、もしかして」
どく、どく、心臓が煩く鼓動する。口の中がからからに渇く。
「息子の隠れ子だったりするの……?」
「違います!」
口元に両手を当てはらはらと青ざめる椿に岳嗣はテーブルに両手の拳を打ち付け項垂れた。そっちか、と心の中で突っ込みながら。
杞憂だと知った椿は晴れ晴れとした笑顔でほっと胸を撫で下ろしている。嫌な汗を掻いた岳嗣もだ。
「だって、あの子アルバムで見た子供の頃の霞さんに本当によく似ているんだもの。初めは息子に似てると思ったんだけど、あの明るい髪は少し霞さんのようでしょう?」
成程、と岳嗣は納得した。椿はひとりの男児を産み育てた母だ。父親によく似た子供を育てた椿だからこそ少年の姿にも敏感だったのだ。
「他人の空似ですよ。あいつの隠れ子だったら一大事だ」
本当よねえ、と椿はくすくすと微笑む。
何々何の話、と帰ってきた少年に好奇の目を向けられれば椿と目を見合わせ「内緒」と言って頬を緩ませた。
他愛のない会話をしながらの食事は他人からすれば親子の、あるいは祖父母と孫のそれに映るのだろう。――年齢上可能ではあるが孫が居てもおかしくないと思うとぞっとする――椿に家族や普段の生活を聞かれた少年は「ひとりっ子だよ」「岳嗣おじさんの近所に住んでるんだ」などとすらすら答えていたが十中八九嘘だろう。自分にさえ話してくれなかった情報をよくも軽々と答えるものだな、と始めは恨めしく思ったがそこに嘘が混じっているのは明らかだった。
楽しそうに言葉を交わすふたりを見て岳嗣は湯気の立ち上るコーヒーにそっと口をつける。
目を閉じるとまだ元気だった頃の霞と椿が朗らかに微笑みを浮かべている様が思い浮かんだ。そうしていると本当に仲睦まじい理想的な夫婦のようで、それが偽りだと知っている岳嗣でも『そう』だと錯覚しそうだった。
だけど知っている。椿はずっと親友である柑奈だけを一途に愛している事。霞と椿の婚姻は互いを愛さないという契約の下に成り立っている事。
それでもふたりの間にあるものは冷たいものばかりではないと岳嗣は確信している。それは霞の身を案じていた岳嗣にとって細やかな救いでもあった。
「へえ! じゃあ椿さんは今お友達と一緒に住んでるんですか?」
「ええ、そうなの。まさかこの歳になって一緒に暮らす事になるなんて私達が一番驚いているわ」
少年の驚く声に椿の柔らかなそれが答える。
未亡人となった椿は今、何と柑奈と暮らしている。仲の良い夫婦だと思っていた柑奈が夫と離婚したのは何年前だったか、お互い子供も家を出ていたのでならば一緒に暮らそうと椿が提案したのだ。
柑奈にとっては立派な日本家屋である白岡家の住まいに居候しているようなものだが、柑奈は柑奈で働いているし長年の親友である椿と暮らすのはまるで寮生活のようで随分楽しいらしい。
素直で嘘の苦手な柑奈の笑っている顔を見ていると、ああ椿はその内に秘め続けた激情を最後の最後まで守り通すつもりなのだと悟った。
椿程心の強いひとを岳嗣は他に知らない。
「椿さん、幸せですか?」
声変わりを迎える前の少年の高い声が耳に突いてはっと顔を上げると、椿もまた一瞬目を見張らせた後ふわりと目元を和らげた。
「ええ、とても。とても幸せよ」
またね、と手を振って椿と別れた後岳嗣と少年は寒さけぶる街の中を白い息を吐いて歩いていた。
『不思議な子。まるで慣れ親しんだ人と話しているかのような心地だったわ』
岳嗣の脳裏に先程椿が零した言葉が蘇る。
穏やかに見えて鋭い感性を持った椿の事だ。もしかしたら何か感じ取っていたのかもしれないが、敢えて深く追求しなかったのかもしれない。
(考え過ぎか)
赤信号の前で立ち止まり徐に少年の頭を見下ろせば彼は小さな万華鏡をくるくると回しながら覗いている。レストランで会計をした際に貰ったサービスのおもちゃだ。
「そういえば霞さん、随分自由に自分の設定盛ってましたけど『かなで』なんて名前よくすっと出ましたね? 事前に考えてたんですか?」
「あーあれ、だって僕の本名だし」
少年が隣で歩き出す。どうしたの、と彼が振り返るまで信号が青に変わっていた事に気づかなかった。
「はあ⁉ 本名って⁉」
大股で地面を蹴り少年の肩を掴むと、彼は「言ってなかったっけ」とさも何でもない事のようにしれっと灰青の瞳で見上げてくる。
「生まれ変わった『僕』の名前だよ。撫子の花と書いて花撫」
不思議なものだよね。『霞』は別名『花糸撫子 』とも呼ばれている事、君は知っていたかい?
少年を急かして足早に横断歩道を渡り終えると、彼は地面を踏み締めながら悠々とそう紡いだ。
どうして黙っていたのかと問えば「だって聞かれなかったからね」と少年はけろりと言ってのける。
確かに、名前は聞かなかった。よくよく考えてみれば前世と同じ名前でない可能性も容易に考えられたのだが、如何せん『霞』のインパクトが強過ぎて失念していたのだ。彼が『霞』と名乗っている以上今世の名前は大した問題ではない、とも言えるのだが。
「まさか椿ちゃんに話した貴方の身の上話は他にも真実が交じっていると?」
「どうかな、適当に話したから何て言ったかあまり覚えてないんだよね」
はあ、と深い溜息が零れる。どうやら少なくとも今はまだ話してくれそうにない。これ以上追及しても無駄だろう。
(後できっちり落とし前つけさせてやる)
幻のような少年は悪戯っぽく微笑みを浮かべると軽やかな足取りで冬の街を歩いた。
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