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第7話 利人〈前〉

 ――約十年前。 『可愛い子が入ってきたんだよ。利人君って言うんだけどね』  年齢相応に落ち着き大人の色香が漂う霞の声が僅かに弾んでいる。愛猫のシーナを撫でながら電話で霞と雑談していた岳嗣は「へえ」と口角を上げた。  どうやら霞の寂しい研究室に彼のお眼鏡に叶った学生が配属されたらしい。 「うっかり手を出さないようにしてくださいよ」 『何故?』 「何故って。ややこしい事になるって俺を見て分かるでしょ。……ちょっと待て、まさか霞さん」  岳嗣は男子学生と付き合った末にいざこざになり結局彼が退学してしまうという苦い経験がある。  だからそれ以降教え子には絶対手を出さないようにしているのだが、それを「詰めが甘い」と言って笑っていた霞だからこそ告げられる言葉に耳を疑った。 『うん、愉しかったよ』  本当、気の毒だよねえ。なんてのんびりした声が受話器越しに聞こえる。ああ頭が痛い。悲しいかな新たな研究生は彼の毒牙に掛かった後だったのだ。  それでもこの時の霞は珍しかった。性に奔放な霞が軽率に男を抱くのはいつもの事だが、自身や椿に迷惑を掛けないような都合の良い相手であれば誰でも構わないような男だ。  だからそうやって特定の誰かに好感を持って意識している姿は少なくとも岳嗣が見てきた中では滅多にない事で、一体どんな相手なのだろうと単純に興味が湧いた。  明るい声の裏側に隠された彼への薄ら暗い感情なんて知りはしなかったのだ。  通された霞の自室。ベッドに横たわる霞の指示の通りに引き出しを開けると一通の手紙が入っていた。  宛名にはあの教え子の名前が流麗な字で綴られている。 「彼の事、君に任せたい」  ゆっくりと吐き出された声は弱々しいが一言一句丁寧に紡がれる。  霞の命の終わりが近づいていた。 「彼は、君のところへ行った方が良いだろう。それには編入への勧めを書いてある。……余計かもしれないけれどね」  霞の専門は日本思想史で岳嗣は考古学、専門も所属する大学も異なる。それでも考古学に興味を示していた利人に霞はより良い環境を与えようとしているのだ。 「僕の最後の教え子だ。その時には、よろしく頼むよ」 「……分かりました」  霞は世話焼きでもなければ甲斐甲斐しくもない。教え子の行く末なんてどうでもいい筈だ。  だけど利人はそうではなかった。  不思議な気持ちだった。嫉妬、ではない。多分ほっとしたのだ。手紙を見つめる霞の眼差しはとても優しく穏やかだったから。  どうするかは彼次第だけれど、岳嗣には霞の信頼が震える程嬉しかった。  暗い室内の中スクリーンだけが浮かび、青年の声がピンマイク越しにはっきりと通る。三十人程が聴講している研修室の一番後ろの席に座った岳嗣と少年は、その講座を静かに傍聴していた。 「どうです、俺の教え子の活躍は」  少年の耳元に顔を寄せにやりと片方の口角を上げて声を忍ばせれば彼もまた不敵に微笑む。 「上等だよ。――流石は『僕の』教え子だけある」  皮肉を込められたそれに岳嗣は口元を右手で覆い笑いを噛み殺す。暗がりに紛れたふたりのやり取りに気づく者はいなかった。  ただ壇上にいる青年と目が合うと青年は驚いたように目を見開かせ、一瞬の躊躇いの後何事もなかったかのように解説を続ける。  確認するように再び向けられた視線へ今度はウィンクを飛ばしてやると、息を詰まらせた青年が咳き込み取り繕うようにぎこちない微笑みを浮かべていた。 「もう、周藤先生がいらっしゃるなんて知らなかったから心臓が飛び出るかと思ったじゃないですか! あと周藤先生のウインクは様になりすぎてかなり怖いので俺に使わないでください」  先程まで壇上に立っていた青年――雀谷利人に挨拶もそこそこに困り顔で詰め寄られれば、変わらない彼の様子に胸の辺りがほわっと温まる。受講生が退室した後の研修室は伽藍洞でそこにいるのは自分達だけだ。 「ちょっとしたサプライズさ。何、夕から今日は勤務日だと聞いたからな。まさか雀谷先生の講座が聴けるとは思わなかったが」 「は、恥ずかしい……‼ どこか至らないところがあれば何なりとお申し付けください!」 「よく出来てたぞ? 最初俺に気づいても動揺してミスしなかったし。二度目は面白かったがな」 「周藤先生がふざけるからですよ……」  はっはっは、と笑うと利人は赤褐色の頭を垂れて肩を落とした。  ここは市内の歴史博物館。学芸員である利人の勤務先であり、彼はつい先程『古代文字について学ぼう』という館内講座を終えたばかりだ。  霞の死後、彼の研究生だった利人は結局彼の願った通りに岳嗣の許へ来る事となった。それも利人自身の希望により院まで進んだのだから霞の助言は適格だったと言えるだろう。  利人とは丁度二十離れているから今は三十一歳になっている筈だ。突出した才能こそないけれど、粘り強く努力家だった彼の側面は今も生きていると夢を叶えた彼を見て実感する。 「周藤さん、こちらのお子さんは? もしかしてご親戚ですか」 「僕、周藤さんちの近所に住んでるんだ。花撫だよ、よろしくねお兄ちゃん!」  少年がぱあっと花が咲くような全開の笑顔を見せれば利人は頬を緩ませ「よろしくね」と完全に絆された様子で頷く。  どうやらこの少年もどき、可愛い子ぶる事に味を占めたようだ。

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