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第8話 利人〈後〉

 休憩に入った利人が岳嗣にコーヒーを、少年にジュースを渡す。雀が描かれた紙コップに唇を近づけ、息を吹きかけ啜るとコーヒー豆の苦みが口の中に広がった。 「夕とは相変わらず仲良くやってんのか? 一緒に住んでるんだよな」 「ええ、相変わらずですよ。あいつ、今仕事で海外に行ってるんですけど忙しい筈なのにまめに連絡寄越してきます。仕事中は無視してますけど」 「あいつ……。俺も電話で聞いたがまだ日本発って一週間も経ってないんだろ? 寂しがり屋か」  夕、とは利人の恋人だ。そして霞と椿の息子でもある。  本当なら今回夕にも会いに行くつもりだったのだが国内にさえいないのなら仕方ない。電話で夕と話した時代わろうかと少年に尋ねたが、別にいいと断られた為どうしても会いたいという訳ではないようだ。  それにしても夕、もう大学も卒業して立派に社会人になっていると言うのに利人への愛の廃れなさというか重さは今も昔も変わらないようだ。否、ふたりが付き合い始めた頃遠距離恋愛をしていた事を考えると同棲に慣れたが故に以前より堪え性がなくなっているようにも見える。  くすくすと小さく笑う声が聞こえて視線を下げれば少年が楽しそうに唇を弓なりに曲げていた。 「お兄ちゃん、その人に愛されてるんだねえ」  かあ、と利人の頬が赤く染まる。えっと、と利人が戸惑いながらちらりとこちらを見ては少年に視線を戻し困ったように眉尻を下げた。 「……うん、そうだね」  利人は少し恥ずかしそうに頬を染めながらはにかむ。それを見た少年がバンバンと勢い良く周藤の腰を叩いた。 「ちょっと、周藤君聞いた⁈ 照れちゃって可愛いねえ、夕がここにいなくて残念だよねえほんとー!」 「え?」 「花撫君黙って。気にするな雀谷、こいつはちょっと頭がおかしいだけだから」  あはは、と笑う少年の小さい頭を片手でぐわしと掴む。戸惑う利人は「はあ」と不審そうな表情を浮かべていた。 「洗面所に行ってくるから待っててくれ」  そう言い捨て周藤は用を足しに行く振りをしてふたりの傍を離れる。――そう、振りだ。別に尿意を催している訳ではない。  利人は霞にとって少なからず好意を抱いた人間だった。きっとふたりきりにした方が良いだろうと岳嗣なりに気を利かせたつもりだ。  少年の指示で彼の妻に、教え子に会った。  何を話すのかと思いきやただの世間話ばかり。岳嗣にしたように素性を晒す訳でもなく、他人を装って楽し気に会話をしただけだ。  あまりにも拍子抜けしたものだからもしかしたら自分の前では話しづらい事があるのかもしれないとこうして場をつくってみたのだが、仕事に戻ると言う利人と別れた後少年が言った台詞は「何故用もないのにトイレになんか行ったんだい?」だった。 「君は人間が出来過ぎているね。気を回し過ぎだよ」  ふ、と柔らかく目を細める少年と視線が交わる。がしがしと後頭部を掻いて溜息を吐いた。指摘される事程恥ずかしいものはない。 「何か話は出来たんですか」 「君の事を聞いたよ。随分信頼されているじゃないか」  まさか自分の話をされているとは思わず目を丸くする。博物館を出ると冷たい風が頬を撫でぶるりと身震いをした。雪解けの道を少年の小さな足がざくりと踏む。 「あまりに君を褒め讃えるものだから『最初からヒガシ大に行けば良かったね』って軽い気持ちで言ったんだよ。彼、何て答えたと思う?」 「……何て答えたんですか?」  ポケットに両手を突っ込みぼんやりと薄暗い空を見上げた少年は少し困ったように眉を下げる。灰青の瞳が不思議な色を映していた。 「『そんな事はない』って、真面目な顔で言うんだ。『今の俺が在るのはふたりの教授のお蔭だから』って。信じられる? あの子は僕が誰かも分かってないのに、そんな事を僕に言ったんだよ」  その顔は少し辛そうにも見える。利人という青年は素直で優しく真っ直ぐだ。彼は自身を弄んだ霞を恨んでいいのに決してそうはしなかった。  霞は彼に恨まれたかったのかもしれない。だから嬉しいだろうに、複雑そうな顔をする。 「あいつはああいう奴ですよ」 「知ってるよ。本当に、呆れる位お人好しなんだから」  ああ、でも、と言葉を区切って前を見据える少年の瞳は澄んでいた。マフラーに顔を埋め、はあ、と白い息を吐く。 「元気そうで良かった」  満足そうに微笑む少年を見下ろして岳嗣もまた目を細める。  日暮れの空に星が浮かび始めていた。

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