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第9話 群青〈前〉

 近くに妹夫婦と父母の暮らす実家があるとはいえ、得体の知れない少年を連れて行く訳にもいかず――きっと煩く追求されるに違いない――その日はホテルに泊まる事にしていた。  夕飯を済ませホテルに着いたのが夜の九時。交代でシャワーを浴びると、疲れていたのか隣のベッドから少年の寝息が聞こえてくるまでにそう時間は掛からなかった。  十一時頃、本に紐を挟んでサイドボードに置く。眼鏡を外して眉間を軽く押さえると小さく吐息を零した。  視力はずっと良かったものの流石に歳には勝てず、本や新聞を読む時には老眼鏡が必須になってしまった。歳の割に若いとよく言われるし自分でもそう思っていたが、何だかんだもう半世紀を超えているのだ。  若い頃に比べると食欲も性欲も落ちたように思う。二十代の頃は相手には困らなかったし性欲も多分強い方だった。だけどいつも長続きはせず、研究に集中したいのもあって次第に特定の相手をつくるのをやめた。  時には気の合うセックスフレンドと、時には一夜限りの相手と身体を重ねるのは気楽で都合が良かった。だけど年々安定した温もりを求めているのも確かで、寂しさを埋めるように飼い始めた猫にドハマりするとは自分でも予想外だ。  近年では乱れた付き合いも時々だ。研究に仕事にと忙しくて前程男を抱く余裕がない、抱きたいと思わない――なんて随分枯れたものだ。性欲がなくなった訳ではないが、男を抱かなくても済んでいる日が増えた、と言った方が正しいか。  しかし安らぎをくれていた愛猫はもういない。  猫とも、誰とも肌を重ねない独りきりのベッドは思った以上に冷たく、淋しい。これまでは過重労働や『霞』というイレギュラーな存在によって気が紛れているが、多分少年が帰ったらすぐにでもペットショップへと向かってしまうかもしれない。決して愛猫の『代わり』を求めている訳ではないけれど、どうしたってこのままは辛い。  そうしてまた毎日の平坦で平凡なサイクルへと戻るのだ。  静かな暗闇の中、ずしりと身体が重くなる。  眠りが浅かったのかすぐに異変に気付いた岳嗣は、それでも目を閉じたまま様子を伺っていた。  誰かが身体の上に乗っているようだが、それは大人程の重さはなく小柄な人間だ。普通であれば異常事態だが岳嗣が動じる事はない。 (何やってんだ、霞さん……?)  重さと微かに感じる匂いで重さの正体が少年だとすぐに気づいていた。そもそもホテルの一室に不法侵入事件なんて早々起こるものではない。  焦れた岳嗣が薄く目を開けようとしたその時、ベッドが微かに軋み唇に温度が近づいた。  か細い小さな吐息と共に声とも呼べない程微かな音がすぐ傍で零れ岳嗣の耳元を刺激する。  ――キスを、されそうになっている。  岳嗣は突然の事に驚きを隠せないでいた。どうして、なぜ――疑問ばかりが脳裏に浮かび身体が強張る。  けれど緊張しているのは少年も同じようだった。ぎこちなく、まるで生まれて初めて口づけをしようとしているかのように唇は未だ触れられずにいる。それは酷くじれったくて、青々としていて、色事の何もかもを知り尽くしている男の行動だとは到底思えなくて。  ――ああ、そうだ。  これが、あの人である筈がないのだ。 「お前は誰だ」  暗闇の中、小さな肩を掴み身体を反転させるようにして少年をベッドの上に転がす。先程までとは逆の立場になった少年が瞳を大きく見開き、ふ、と鼻先で嗤った。 「誰って知ってるだろ。俺は白岡……」 「お前は白岡霞じゃない。お前が本当に霞さんなら例え冗談でも俺にキスなんかしないさ。それに霞さんは自分の事を『俺』とは言わないな」  霞が自身を『俺』と呼んでいた事も昔であればあったが、今はそんな事は大した問題ではない。  現に今、少年は身体を起こすと面白くなさそうに顔を顰め岳嗣を睨みつけている。その唇が呆れたように大きな溜息を吐いた。 「あーあ、つまんないの。何が『霞じゃない』だよ。本当はキスされたい癖に」 「馬鹿言うな。だから俺はそういう趣味はねえって」  溜息を吐きたいのはこちらの方だ。眉を顰めた岳嗣はベッドから降りるとぱちりと照明のスイッチを入れた。  そうして振り返り息を呑む。  白皙に浮かぶ鮮やかな青。  真っ直ぐにこちらを見据える少年の瞳は灰青のそれでなく、美しい海を思わせる透き通った群青色に輝いていた。 「趣味じゃないって何。あんた、白岡霞が好きなんだろ?」  鋭い矢に心臓を貫かれたようだ。  とんでもない事を口にする。しかもあの人と同じ顔で。  ただその瞳と言動は明らかに昨日今日と共に行動していた少年のものとは違っていて、やはりこれは『霞』とは別人なのだと改めて確信する。  では一体誰なのか。そんなの、ひとりしかいないだろう。 「お前、『花撫』だな?」  見下ろした先で群青の瞳が僅かに揺れる。 「俺があの人に惚れていたのはとうに昔の話で今はただの友人だ。霞さんはどうした?」 「嘘。だって、あんた……」 「え?」  一瞬少年が傷ついたように見えたのは気のせいだろうか。少年は「何でもない」と苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。 「えっと何だっけ……ああ、白岡霞。あの人なら多分俺の中で寝てるよ。ていうかあんた、俺があいつの振りをしてたとは思わねえの」 「はは、流石に有り得ねえとは思ったけどな。それでもあれは霞さん本人の意識と考えるには違和感がなかった。お前が演技してたんならすぐ見抜くしな」  大した自信だな、と少年が呆れたように眉を下げる。  そうして悪戯を思いついたような不敵な笑みを浮かべたかと思えば、白い手が誘うように岳嗣の腕に触れた。 「やっぱあんた今でも白岡霞の事好きだよ。いいぜ? 俺の事抱いても」 「――は?」  きゅ、と滑らかな小さい指が岳嗣の骨張った指に絡みつく。瞬間動揺して振り払うも少年は傷つく素振りもなくただ含みのある微笑みを浮かべるだけだ。 「俺知ってるよ。あいつの記憶の中にいたあんた、心底あいつを――白岡霞を愛してただろ。なのに振り向きもされない。どんなに健気に尽くしてもキスさえしてもらえなかったんだよな」  頭の奥がじんじんと熱い。  咽喉が渇いて、いつの間にか再び絡み取られた手は少年の頬へと運ばれた。 「身体は違うけど俺は間違いなく白岡霞の生まれ変わりだ。だから好きにするなら今のうちだぜ?」  柔らかな頬が温かく、その生々しさにぞくりとする。  唖然とした。  冗談にしては度が過ぎる。十年も生きていない子供が口にする言葉ではない。 「抱くとか好きにするとか、そういう発言は十年、いや二十年早い。そもそも自分を粗末にするんじゃねえよ」 「いってえ!」  触れた頬をそのままつねると、少年は顔を歪めて自分の頬を擦る。  どくりどくりと心臓が煩くて敵わない。岳嗣は平静を装いながら未だ温もりの残る掌を固く握り締めた。 (白岡霞の、生まれ変わり)  何に衝撃を受けているのか自分でも判断に困っていた。  少年の肉体を正しく所有しているのだろう『花撫』という意識がはっきりと『霞』の存在を明示したから?  それとも霞の面影のある少年が誘ってくるから?  それとも――。 (ああ、頭が痛い)  元々の個性か、霞という後付けの要素があるせいか。年齢より大人びて見える少年はまるで大人のような空気を纏う。  それは『霞』が少年として動いていた時とはまた違った雰囲気で、『花撫』はどこかちぐはぐで歪に見えた。

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