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本来、記憶喰いに噛みつかれた者は最も大切な者の記憶及びそれに纏わる思い出を失う。 だが海はこのマッドネス擁する秘密地下実験施設やグラマラス、おたまのことは忘れていなかった。 恐らくそれは噛みつきが浅かったためだろう。 腕に抱かれていたおたまがもろに噛まれて、海は、指先をやられた。 今は絆創膏で小さな噛み跡を隠している。 自分自身が忘れ去られているクロにはどうでもいいことであったが。 「一緒に美術館に行ったんだ」 「……美術館? 貴方と一緒に?」 「林間学校までお前に会いにいった」 「貴方が……ですか?」 他人行儀の響きを含む「貴方」というワードが出てくる度にクロの胸は軋んだ。 罵ることもできないほどのクロの無言の怒気に中てられて、さすがに反省し、グラマラスは珍しく自主的にラボを退出していた。 クロと二人きりにされた海は明らかに心細そうにしている。 自分を忘れてしまったおたまが眠る水槽の前から離れようとせず、時々、隣にいるクロをためらいがちに見上げてくる。 「お前がヒロインの弟だってことも知ってる」 その台詞には心底驚かされたらしい、おたま寄りであった視線がクロにしばし直向きに注がれた。 前髪で双眸は隠れているがクロには否応なしに伝わってきた。 海の怯えが。 「あの、僕……ごめんなさい、でも騙すつもりとかじゃなくて」 わかってる、わかってるよ。 そんなこと誰よりも一番知ってる。 だから怯えないでくれ、海。 行き場のない焦燥と苛立ちがクロの身の内に蓄積されつつあった。 海がまた水槽に向き直ったことでそれは限界に一歩近づく。 「おたま、ちゃんと僕のこと思い出してくれる――……」 海は言葉を切った。 上背あるクロに背中から抱きしめられて、その腕の強さに声がひゅっと喉奥へ引っ込んだ。 「二十四時間も待てない」 「……」 「一片でもいいから覚えていないか、取りこぼされた一滴、その記憶に眠っていないか?」 青く澄んだ水槽に重なる二人のシルエットが写り込む。 淡い泡沫が音もなく浮上していく……。 「ごめんなさい、クロ……さん」 同じ呼号でもやはりその響きは違うもの。 全くの別物。 絶対とする一線がある。 限界を超えたクロは衝動のまま海の唇を唇で塞いだ。 「こうすれば思い出すかもしれない」

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