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第10話 ただの突き指ですってよ。
「ただいまぁ」
「あら、おかえり、ずいぶん時間かかったのね」
うちは、店と住居がちゃんと仕切られている。でも、朝方だとやっぱりお饅頭の蒸かしているふっくらとした微かに甘い香りが漂っていたりする。午後になればもう追加で作ることは滅多にないから、匂いもずいぶん薄れるんだけれど。小さい頃は、これがチョコレートの匂いに変わってくれたらどんなにいいだろうって、思ったっけ。
「うん。なんか、混んでた」
でも、今日は珍しく朝だけする香りが家のほうでまだ漂っている。
「今からお饅頭を届けてくるから、充、お留守番お願いしていい?」
「あ、うん」
店の表に立っているのは大概がうちのお母さんで、父さんは裏方。午後までは和菓子を作るほうをメインして、午後からは事務仕事をしたり、翌日の準備をしたりしている。ばあちゃんはもう引退していて、この時間帯ならきっと居間で刑事もののドラマを見ながらお茶を飲んでいるはず。
「……」
お饅頭、蒸かしたてのはたしかに美味しいけれど、俺は冷えてしまうとあまり好きじゃなかった。甘さが強く出る気がして、餡子が得意じゃなかった俺はちょっとイヤだったんだけれど、でも、青君は冷えても蒸かしたても、うちのお饅頭が大好きだったっけ。
「お饅頭」
これを上げたら、喜ぶ、かな。ほら、だって、彼女がいないのなら、別に俺があげても邪魔くさくないだろうし。
俺の好きなチョコのお返しに、青君の好きなお饅頭をあげたら、なんてことをほんの少し考えただけで、頬を染めて瞳を潤ませて大喜びする青君の表情がすごく簡単に想像できた。
「うわぁ、突き指? これで?」
小坂さんが俺の左手を見るなり飛びつく勢いでかけてきたから、いきなりの急接近に自然と体が仰け反った。湿布を貼ってテーピングでガチガチに固めてあるから、見た目的にはダメージものすごそうだし、実際に見ると内出血がえげつない色になっていて、もっとびっくりしてしまうけれど、実際は、ただの突き指。
「そっかぁ、こりゃ大変だね」
おばあちゃんみたいな口調で話す小坂さんが俺の前の席に座って、負傷した親指を真剣な眼差しで見つめていた。
「そしたら、当分部活出れないねぇ」
「あ! それなんだけどさ!」
そう、思いついたんだ。そして、あのうるさくて口の軽い益田がいない今しか、その思いつきを発表するチャンスはない。
「あのさっ、今度、部活が休みの日でいいんだけど」
「?」
小坂さんに付き合ってもらうのが一番だろ。昨日、整形外科の帰りに青君と電話で話して、そして、部屋で考えたんだ。
「ホワイトデーにお返しをしようと思って」
「え?」
そこでそんなに嬉しそうな顔をされると、まぁ、そんな顔をされるだろうとは思っていたけれど、なんか顔がまた熱くなる。
「まさかの! 深見君に?」
「や、友チョコだからね。っていうか、もらいっぱなしじゃ悪いでしょ」
「うんうん」
本当に聞いてる? 目を輝かせて覗き込んでるけど、俺の言ってることちゃんと聞いてるのかな。
友チョコだろうといただいたから返さないと、だろ? 飴とかマシュマロとか、あとはクッキーとか。でも、どれも洋菓子で、青君の好きなのは和菓子だから、さ。
「ラッピングとかわからないから、一緒に選んでもらえると嬉しいかなと」
「うんうん!」
和菓子は俺が作れる。家の手伝いでお菓子なら作ってるから、そこは何も心配がいらないけれど、ラッピングの色々がどこに売っているのかも俺は知らなくて、女子ならそういうの詳しそうじゃん。実際、小坂さんもバレンタインに友チョコを女子限定で可愛くラッピングしてたし。
「いいよ、いいよぅ、手伝うよぅ。いつにする?」
「や、あの」
「うんうんっ」
でも、部活が休みの日は益田も一緒に帰ることが多いから、ふたりでこっそりどこかで待ち合わせをしようと思うんだ。あいつに見つかるとうるさいし、なんか興奮のあまり邪魔なことばかりしそうなイメージがあるから、内緒にしたいんだ。
駅とかで待ち合わせて、とりあえず、むき出しで饅頭とか渡せないから、何かに包んで渡せたらいいかなと。
「オッケー! そしたら、次の部活が休みの時にでも」
「ごめん、でも助かる」
「ラッピングは手伝う?」
「いや」
そこは自分でやりたいかなって。昨日よりもだいぶ痛みも引いてきたし、あと、少しでホワイトデーだけれどそこまでにはほぼ治ってるだろうから、ラッピングの材料だけを揃えておこうかなと。
「ラッピング、自分でしたいから、あの、買うのだけ付き合ってほしいんだ」
「ふーん」
「?」
な、何? 俺、何かおかしなこと言った? 小坂さんがなぜかニヤリと笑って楽しそうにしている。別におかしくない、よね? チョコもらったからお返しするだけの話。そのチョコがバレンタインだったから、お返しはホワイトデーって言うだけのこと。
俺が好きだからと、とても丁寧にテンパリングされたチョコをもらったんだから、俺も、うちの店の餡子で作ったお饅頭をあげたいっていうだけのこと。
「何? 何を小坂に手伝ってもらうんだ! 充!」
そこでタイムアウトだ。目配せで、益田には知られたくないからって伝えると、ニヤリと笑って大きく頷いた。
「何の話をふたりでしてたんだよー!」
「あぁ、もうっ! うるさい! っていうか! 益田!」
益田がかまってほしくて仕方のないみたいに絡んで、会話に混ざってきた。なんだよって、なんかびっくりした顔までして。
「お前、話誇張しすぎだ!」
「へ?」
俺の手は別に三倍になんて膨れ上がっていないし、骨に異常もなければ折れてもいない。ただの「突き指」なんだ。全治、なんてたいそうな言葉をくっ付ける必要もない。痛いけど、痛いだけで、動かさなければ問題なんてないのに、益田が大袈裟に煽って言ったりしたもんだから、青君がビビってただろ。
「あー、あはは、でもさ、だって、お前、あん時すげぇ暗かったから」
突き指なんてバスケをやってたらしょっちゅうだ。それを防止するために、最初からテーピンする人だっているし、突き指のテーピング方法ならプレイヤーだって、手伝ってもらわずに自分でできるくらい慣れている。だから、冷やしに行く俺を見て、いってらっしゃーい、くらいにしか思ってなかったのに、帰ってきた俺の顔はとてもしんどそうだった。
「だから、あぁ、こりゃやっちまったなぁっ! て思ったんだよ」
「……」
どこのお笑い芸人だよ。
「でも、ま、ただの突き指ならよかった」
俺ってそんな顔してた? しんどそうだった? たしかに痛かったけど、でも、親指よりも、あの時の俺は、あんまりそっちに気が回らなかった。俺は、それよりも――
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