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第14話 眠り姫

 ホワイトデーってバレンタインほどは盛り上がらない。教室に甘い飴の匂いがすることもないし、そわそわしている人もそんなにいない。  でも、なぜか、俺はひとりでアマゾンの秘境にでも足を踏み入れている気分がしてる。うちのクラスはA組だから、階段のすぐ脇にあって、F組の教室はこの廊下を真っ直ぐ、ただひたすら真っ直ぐ進んだ突き当りに位置している。トイレはAとFの中間地点にある。もうそこより奥へ俺らA組の奴らが行くような用事も理由も日常にはなくて、だから、今、俺が歩いているこの辺りは未開の地みたいなもので。 「あの、深見って、いる?」  その未開の地を突き進み、ようやく辿り着いたドアのところでちょうど飛び出してきた、陸上部の奴に声をかけた。  もう放課後。というか、ついに放課後って感じで、俺は少しくたびれてるけれど。 ――え? 私も? いいの?  小坂さんには「毒見」って冗談で言いながら、お昼にひとつだけ、白いほうを、そして、益田は目ざとくそういうのだけは見つけてうるさくするから、黒糖のほうを。  饅頭の味は好評だった。  和菓子屋の餡子って、ちゃんと甘いのにさっぱりしてて、全然違うんだなって感動してもらえるくらいに上出来。俺があまり好きじゃないから、益田たちに食べさせた事はなくて、今回が初めてだった。 「深見? あー、なぁ、深見知んねぇ?」  陸上部の奴は教室をぐるっと見渡してから、別の奴が教室を出ようとしてるところを捕まえて訊いてくれた。  教室の中も全然違う。同じ形をしているはずなのに、いるメンツと置かれている鞄とか掲示物が違うだけでこんなに雰囲気が変わるのかって驚くほど、終着地点は秘境だった。 「深見? あ、なんか、調理室寄ってから帰るっつってた」  今日、クッキング部ない、はずだ。火曜はないって前に話してたのに。何か用事が? 「あ、そう……なんだ」  それとも、あの子と一緒にいたりとか……する? 「深見君、探してる?」 「!」  心臓が飛び出るかと思った。そこにはあの女子がいたから。たしか、名前は……島、さん。 「あ、えっと」  真正面で見ると横顔だけだった時以上に可愛かった。大きな目にクルッとカールした睫毛がたくさんくっついていて、人形みたい。この髪型がまたそんな印象を強くさせているのかもしれない。可愛い女の子の高い声は聞き取りやすくて、そして、優しい感じ。俺とは全然―― 「調理室に行くって言ってたよ? 今日忘れた宿題を提出しないとアウトなの。でも、教室じゃうるさいからって」  同じクラスだから事情を知っているのは当たり前なんだろうけれど。自分のことのように青君のことを話すこの子に少し指先がツキンと痛んだ。  勉強するのなら図書室っていう手もあると思ったけれど、それは一般男子高校生の俺ならではの発想なんだろうな。青君がいたら、きっと誰かしら声をかけるだろうから。静かに課題をやりたいのなら部活のない調理室は絶好の場所かもしれない。 「……あり、がと」  ニコッと笑ってた。すごく可愛い女子だった。っていうか、俺、なんでこの子と自分の違いとか見つけてんだ。そんなの当たり前なのに。まず性別からして違うんだから、こんな睫毛も、長くて綺麗な髪も、あと声も、俺にあるわけがないのに。 「うんっ」  何、ちょっと気持ちがクシャッってしてんだよ。友チョコのお返しをするだけなんだからさ。ただ、それだけなのに、なんでこんなに気持ちの上げ下げがすごいんだ。  相手は青君。  幼馴染で、洋菓子屋の、でも、うちの饅頭が大好きな餡子マニアの青君。ただの、青君。 「……」  それなのになんでこんなにドキドキしてるんだろう。秘境探検は終わって引き返してるのに、なんで、心臓が勝手に慌ててるんだろう。  調理室は特別教室がある別の棟の一階。  バレンタインだとあっちこっちからチョコの香りがしていたけれど、今日はどこも平常運転で、放課後、クッキング部が休みのはずの一階調理室は静かなものだった。  途中から段々と遠ざかっていく皆の笑い声。そして、その代わりに目立つのは自分の足音で、自然と足の裏に力がこもる。  ここで勉強してるってことは静かな環境がいいんだろう。だから、そっと渡すだけ渡して、邪魔にならないようすぐに帰らないと。饅頭は課題やりながら食べてよって、軽い感じで渡せばいいんだ。友チョコのお礼だっていうのも言っておかないと。それと、マフラーをありがとうって。ちゃんと洗ったからって。課題を終わらせないと帰れないのなら、帰りは遅くなるだろうし、そんな時にはマフラーが必要になる。 「……」  調理室の前まで来て、一時停止。  音は何ひとつしなかった。ここはすごく静かなのに、本当に何も音がしなくて、わずかな音でさえ聞こえるほど。扉に手を伸ばす俺の腕がぎこちなく、まるで壊れかけてるおもちゃが軋むみたいに音を立ててもよく聞き取れるくらいの無音。  本当に、中に青君はいるのか? そう思わせるほどの静けさ。  そっと、ドアに触れて、そーっと横にスライドさせた。どうしたって音は出てしまうのに、その音に歯がゆくなる。静かにって、声に出してしまいそうになる。  青君が、いた。 「……」  窓際のテーブルのところに伏せて、キャラメル色の頭だけが見える。  この前、お昼にここで一緒に昼食を済ませた時は日差しがいっぱいに降り注いでいたけれど、今は夕暮れだからか日差しは入っていない。ただ、青が薄くなって、少し空気にオレンジ色が滲んでいるみたいな、そんな空が調理室の端から端まで広がっていて、細長いパノラマの写真みたいに見えた。  青君は、そのテーブルのところに伏せて、眠っている。  忍び足で近づいて、その顔を覗き込むと、少し口を開けて、くー、すー、って穏やかな寝息を溢してた。  手元にはシャーペン。きっと持っていたけれど、居眠りが深く濃くなって、その手から零れ落ちたんだ。  寝て、ないのかな。  すごい気持ち良さそうに眠っているけど、課題終わってるのか? 「青、く……ん?」  そっと、驚かさないようにそっと声をかけたら、声が上擦って掠れてしまった。青君は眉を動かすこともなく、普通に熟睡しているっぽくて、俺の小さな声じゃ目を覚ましてくれない。  薄く開かれた唇からは寝息がまだ零れてて、柔らかそうなキャラメル色の髪の先が、睫毛に触れて少しくすぐったそう。チョコレート色の瞳は今は閉じたまま。 「青……」  昔の、五歳の頃の青君とは全然違う。  一緒に歩いていると風に揺れるキャラメル色の髪、骨っぽい首筋、丸みなんてなくなった頬のあたりからすっきりした鼻筋までがすごく男らしくなった。今、シャーペンを落っことしたままの指だって関節のところが目に見えてごつそうだし、手は全然プニプニしてない。  ゆっくり一緒に成長したんじゃない。同じ学校にいてその存在は知っていたけれど、ただ遠くから見ているだけじゃわからないところが、突然、目の前に飛び込んできた。今の、高校生になった青君。 「あ……ぉ……」  だからかな、すごくドキドキして、本物なのに、俺の知っている青君なのに、心臓が飛び跳ねて、たまにクラッとよろめいてしまいそうになる。心臓が限界を超えて騒いでしまうから。 「…………」  思ったんだ。この青君は本物なのだろうかって。 「……」  だから、ほら、あれみたいにさ。これは温かいのか、冷たいのか、確かめる時に一番敏感に感知できる唇で触れることがあるけれど、それみたいに―― 「っ!」  触れていた。唇で、青君に触れてみたくて。 「……」  気が付いたら、唇で、触れていた。

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