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第37話 七夕キス

 すごく好きなのに。  青のこととても好きなのに。 「あらぁ、みっちゃん、こんばんは」 「こ、こんばんは。あの夜分にすみません。あの、青、いますか? ちょっと、えっと、問題集を学校に忘れてきちゃって、借りられないかなぁって」  勢いだけで、夜に来てしまった。斜め向かいの洋菓子屋さん。青の家。青のお母さんが顔パックをしながら現れてちょっとびっくりした。ほら、幼馴染だから、お母さんもあまり気にしないで、気さくにしてくれる。 「あの子、持って帰ってるかしら。料理のことと同じくらいに、勉強もしてくれたらいいんだけど。ちょっと待ってて。青葉ー! あーおーばー!」  おばさんの声に、のんびりとした青の声が「なぁにー」って返事をしていた。  そして、「みっちゃんが来てるわよ」の一言で、青の部屋のある二階からものすごい物音が聞こえて来た。慌ててるってすぐにわかる音。 「どうぞどうぞ、上がって?」 「あ、すみません」 「お茶、持ってくわね」  そう、幼馴染だから、顔パックそのままで玄関ドアを開けてくれるし、夜分でも、こんなふうに家に上がらせてくれる。これが女子っていうか、彼女だったら、そうはいかないと思うんだ。顔パックをしたままじゃないだろうし、こんな夜に部屋にふたりっきりにはさせてくれない。 「あ! これ! ホントは七夕ゼリーを、って思ったんだけど、完売しちゃったから、これ、羊羹」 「あらあらぁ、ありがとうございます。遠慮なくいただきます」 「……あ、ううん」  俺が幼馴染だから。でも、本当は違うんだ。おばさん、あのね、俺は、青の彼氏なんだよ。言えないけどさ。誰にも、このことを言えないけど、俺、青と付き合ってるんだ。 「え、み、みつ?」  ドタドタって、大きな足音。転がるように階段を降りて来た青は俺を見つけて、頬をとても綺麗なピンク色に染めていた。 「んんん! めちゃくちゃ美味しい! 羊羹!」  青が頬の片方を丸く膨らませて、目をぎゅっと閉じて、羊羹を噛みしめている。俺は苦手だけれど、青にとっては史上最高に美味しいスイーツなんだって。  おばさんがお茶を持ってくるって行ってたけど、青が俺を迎えに下へ降りて来たついでに、お茶とさっき俺が持って来た羊羹、それはもちろん青用ので、俺にはパウンドケーキを切ってくれた。残りは持って帰っていいって言われて、かなり嬉しくて、つい笑顔になってたら、おばさんに笑われた。パウンドケーキひとつでそんなに嬉しそうにされると、こっちも嬉しくなるわって。顔に全部出てたって。  部屋に案内されて、どうぞって手で誘導されたところはベッドで、ちょっとだけドキッとした。俺の部屋もそうだけど、青の部屋にもソファなんてものはないから、座るのなら、ベッドの端か、床の上になる。青のとこにはラグがないから、座るのなら自動的にベッドの端なんだけれど。ただそれだけなんだけれど。  ドキッとしてしまう。 「びっくりした」 「ご、ごめん。アポなし訪問とか」  彼氏と二人っきりの部屋でベッドがあって、ドキドキするのが普通だろ。誰にも言えないし、今、この部屋におばさんが来て、俺たちを見ても何も思わないんだろうけどさ。 「っぷ」  笑った拍子に濡れた青の髪の毛先が揺れた。髪が濡れてるから? だから、こんなに喉の奥のところが熱くなるの? 「なんで笑うんだよ。っていうか、ちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」 「はーい」  言いながら大きな手でガシガシと髪をタオルで擦ってる。骨っぽい手。保育園に行っていた時のあの手が、こういうふうになるんだな。 「アポなし訪問嬉しいよ?」  そのワードが気に入ったみたいで、青は楽しそうに「アポなし訪問」って言葉を繰り返す。 「あっそ」 「うん」  会いたかったんだ。中原さんにも、おばさんにも見えない俺たちのこと。見えたら大変なんだけど、隠さないといけないんだけど。嘘、つくことにすごく胸が痛んだんだ。  こんなに好きなのに、友達だって言うことが、自分の中にある「好き」って言葉に「友達」って言う言葉を上書きしていってしまうような気持ち。一番大きくて大事なはずの「好き」を周りに隠して、見えなくして、その上から「友達」って言葉を重ねて、誤魔化す度にいくつも重ねて、そのうちあるはずなのに本当に見えなくなってしまうんじゃないかって。 「明日、デートで会えるけど、でも、もっと会えるの嬉しい。アポなし訪問大歓迎、です」  ふわりと、青が笑った。キャラメル色の髪が濡れているせいで、濃いブラウンになって、チョコレート色の瞳のそばで水滴を作ってる。濡れただけで、なんだろう、何、これ。青ってこんなだったっけ? こんなに男っぽかったっけ? 「みつ……」  キス、した。そのキスに、さっきまでざわついていた胸のうちにあった「好き」がホッとしたように落ち着く。キスを交わすのは好き同士だから。たったそれだけのことが、さっきまで「友達」って言葉に覆い隠されそうになっていた「好き」がちゃんと浮かび上がってくる感じ。 「どうしたの? みつ、笑ったりなんてして」 「んー? 青のことすっごい好きだなぁって、思っただけ」  ホントのことを言ったら、呆れられそうで、結論だけ話した。キスして、「好き」がここにあることを確かめたかったなんてさ。 「みつ」  名前を呼ばれて、顔を上げたら、すぐそこに青がいた。視界が全部青でいっぱいになる。そして、唇がもう一度、今度はしっかりと、しっとりと重なる。   「ん……っン……ふ」  なんか、声が、出た。  舌が俺の舌に触れて、先のところで絡まり合うように遊ばれて、濡れた音がする。 「ふわ、ぁ……」  青の舌の感触に、変な声が出た。恥ずかしくて、目を少しだけ開けてみた。変な声を出した俺には青が引いてないかなって、確かめたくて。 「みつ」 「ん、ン、んんっ……んっ……ンく」  そしたら、舌を絡ませながら、俺を見つめる青がそこにいた。じっと見つめて、その瞳は濡れてるみたいに艶めいて光ってる。まるで、キャラメル色の髪の毛みたいに、雫でもまとってそうな、そんな瞳。 「ん、ぁ……お……ンく、ん」  喉を鳴らしたの、この至近距離じゃ青に聞かれてるんだろうな。ゴクって、交換し合う唾液が唇の端から零れそうだったから。 「ん、ふっ」  キス、長い。  息継ぎ、できない。そのくらい口の中を青の舌がまさぐってる。酸欠? 頭の芯がジンと痺れて、ボーッとしてしまう。 「みつ」 「あ……ふ、ン……」  唇が離れる時、変な声が漏れた。鼻から抜けるような甘ったるい声は自分のものじゃないみたい。こんな声を自分が出せるなんて知らなかった。 「みつ……」  深いキスをするのに前のめりになっていた青を支える手。ベッドについたその手は同じ男なのに、どうして大きく感じるんだろう。手の甲が骨っぽくてさ、触ったら固そうな感じがして、なんかドキドキする。 「みつ?」  思わず手を捕まえて、自分の掌と重ねてみた。当たり前だけど、同じ歳で、同じ男で、多少は身長の差があるけれど、手の大きさはほぼ同じなのにな。それでも大きくて、男っぽいって見る度にドキドキする。ただの手なのに、この手にもっと――。 「! ご、ごめん。俺がいると髪、乾かせないよな! 明日、デートなのに、かっ、風邪とか引かれたらやだから。帰るっ! うん!」 「みつ?」 「おやすみなさいっ!」  慌てて立ち上がると、目を丸くした青の髪からポタリと雫がひとつ落っこちた。それにすら、今、たくさんキスした唇がジンって痺れて、俺はもっと慌てて、部屋を飛び出す。 「おばさん! おやすみなさい!」  リビングにいるだろう、おばさんに声だけかけて、それから自分の靴をつま先に突っかけるだけで走って自分んちに逃げ込んだ。 「あら、あんた、お店の片付けしないでどこ行ってたの?」  青のとこ、行ってた。青のとこで、キスして、掌を重ねて、そして、その骨っぽい手にきつく抱きしめられるとどんなだろうって、想像して、びっくりして逃げてきた。  だって、青の手が触れる俺は、想像の中で、裸、だったから。  青も、俺も、裸で抱きしめ合っていたから。

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