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第38話 おでこグリグリ

 裸だった。  いや、本当に裸だったわけじゃないんだけど、でも、頭の中で俺を見つめる青は裸で、俺も裸で、つまりは、その。 「っ」  身体が熱い。青の濡れた髪にドキドキした。風呂、上がったばっかだった青の濡れた髪にも、キスに濡れた唇にも心臓が爆発しそうなくらいに暴れて、体の中が熱くて、どうにかなっちゃいそうで、逃げ出してしまった。だって、だって――。 「っ!」  あの青の手で触れられて、抱き締められて、キスしてさ。 ――好きだよ。  なんて、告白されてさ。いつもだったらニコって笑う青をそこで想像する。その笑顔を見ると胸のところがじんわりと温まって、俺も好きだなぁって実感して、幸せが指先までめいっぱい体の内側に広がる感じ。青のことを抱き締めたくて仕方がなくなる。そして、思ったままに抱き締めて、笑い合って、また、キスする。  いつもは、そう。 「っは、ぁ」  でも、今のは、違う。吐き出した溜め息がすごく熱くて、思わず唇を噛み締めてしまう。さっき、青の唇が触れた柔らかいところを、青の舌に舐められた歯で、噛んだ。キスの合間、唾液、とかを、飲み込んだ舌の奥のところから何度も込み上げてくる熱を、外に吐き出すために溜め息ついて。  胸に広がるのはいつもみたいなあったかいものじゃない。  ぎゅっと手を握りながら、口元を強く拭って、目を閉じた。 ――みつ。  目を閉じると、濡れた髪の青がいて、もっともっと体が熱くなってしまう。触れられて、抱き締められて、キスされる。でも、今、目の前に浮かぶ青は裸だ。ニコッと柔らかく笑うんじゃなくて、切なげに俺のことを呼んで、好きだよって耳元に囁く、濡れた髪の青だった。 「あ……お」  声が声になってない。熱風が喉奥からせりあがって、口から溢れたみたいに熱くて掠れた吐息みたいだった。  目の前にいる妄想で作った青のことしか頭になくて、ダメって思うのも忘れてしまった。  ダメなのに。 「だ、大丈夫? みつ? 酔った?」  今、俺は罪悪感に押し潰されそうです。ほら、額がめちゃくちゃ痛い。このままきっとぺしゃんこになるんだと思います。  このショッピングモール最上階にある映画館の片隅で、ぺっしゃんこに。 「へ、平気? みつ、そんなに壁に額をぐりぐりしたら、痛くない?」 「……痛いです」  でもいいんです。今、ものすごく猛烈に反省している最中だから。 「ほら、みつ、酔ったんでしょ? お茶にする? サイダーとかのほうがいい? ……っぷ、ちょ、みつ、おでこんとこ、グリグリしすぎだって。真っ赤だよ」  青が口元を手で少し隠しながら、笑うのをとりあえず堪えて、でも、結局笑ってた。  映画館を出てすぐ、一面真っ赤なお洒落廊下で、その真っ赤な壁に額をグリグリ押し当てて反省していた。そんな俺の真っ赤になった額を見て笑ってる。  別に酔ったんじゃない。  一日遅れの七夕デート。俺たちが選んだ映画はデートに相応しいラブストーリーでも、女子が怖がって男子に飛びつく絶好のチャンスを作れるホラーでもなく、しんみりできるヒューマンものでもない。終始、ドッカンボッカンって爆発しまくりのアクション映画だった。そのラスト三十分くらいはあったかもしれない。ものすごいハイスピードのカーチェイスを立体映像で見たら、たしかにクラクラはした。地面スレスレをあんな速さで逃げることなんて、俺たちには一生ないだろう未知の体験をさせてもらった。  でも、俺のおでこが赤いのはその映画のせいじゃない。 「平気……」 「ほんとぉ?」  ニコッと笑って首を傾げながら覗き込んでくる青の、首筋のなんていうんだろ、骨っぽところを見て、ドキドキする自分への自己嫌悪から来るおでこグリグリなんだ。なんで、そんなことばっかり考えてるんだよ! っていう、罪悪感がおでこにバカって烙印を押す。赤く丸く、壁に押し付けた痕っていう、烙印。  昨日、ダメって思うのに、わかってるのに、止められなかった。自分の手を止めらなくて、青のことをやらしく思い出す自分の脳みそを停止できなくて、ホント、何してんだよ。俺ってば。 「青? な、に? あ、あんま見んなよ」  だから、あまり、見つめられたくない。 「なんか、ちょっと嬉しいんだ」 「?」 「島さんもそうだし、益田なんかもそう。けっこうさ、皆がみつのこと、クールキャラって思ってるけど」  すごく、今の俺はやましいから。 「でも、みつってけっこう可愛いくて、今みたいになんか急に面白いことをしたりしてさ、楽しいんだよって、誰にもバレてないのが嬉しいんだ」 「……」 「俺だけが知ってるって、なんか、独り占めーっ! って感じがして、嬉しい。なんて、思ったりして」 「……」 「あっ! ほら! ジュースでいい? あんま甘くないの。レモンとか柑橘系があるといいんだけど」 「だ! 大丈夫だから! 青っ」  本当に心配してくれる青に申し訳なくて、俺にジュース代とか使わせるわけにはいかなくて慌てて引き止めた。  こんなふうにあったかい「好き」って気持ちを俺に向けてくれてるのに、なんで、俺は、あったかいままで隣にいられないんだろう。  青だけが知ってる俺。  でも、そんな青は知らない俺がいる。青のことをやらしい目で見たり、想像したりする俺のことなんて青は知らないし、きっと、知らないほうがいい。 「あれ? 充?」  ふたりで映画館のあるフロアを出て、お店が並ぶ中から、ドリンクマークを探して、辺りを見渡した時だった。少し呑気な声は低くて、落ち着いていて、自分たちと同じ高校生じゃないってすぐにわかる。 「あ、こんにちは」 「おう」  中原さんだった。ジーパンにTシャツで手ぶらだ。うちの店で年に一度しか出さない七夕ゼリーのことも知ってるっぽかった。まだ残ってるかなって伺うような感じだったし、五個全部買って行った。あれが十個でも全部買って行きそうな勢いだったし、そもそもあのゼリーのことを知ってるんだ。うちの店、自慢にならないけど、別に超有名なおとり寄せスイーツありますって店でもないし。  だから、きっと、中原さんはこの近所に住んでるんだと思う。 「映画?」 「あ、はい」 「そっか」 「中原さんは買い物ですか?」  ちらっと青のほうを見た。中原さんのことは前に説明したから、知っていると思う。覚えていればだけれど。  青は何も言わず、隣にいるだけ。その表情は静かだった。驚く、ようなことでもないかもしれない、よな。バスケのOBにここで偶然会ったからって、それが何? だろうし、バスケのことはちっともわからない青にしてみたら、中原さん自体が「ふーん」って感じだろうから。これが、バスケ大好き少年とかだったらまた違ってくるんだろうけど。 「そう。ここの本屋大きいからさ」  本屋に行くのか。たしかにここのフロアのひとつ下は本屋だ。一角だけが文房具屋だけど、そこ以外は全部本屋。  中原さんの視線がチラッと、一瞬だけ、青を見た。見ただけで、何か話すわけでもなく、そのままだけれど。 「そうなんですか」 「あぁ、映画とかいいねぇ、何見たの?」 「あ、えっと」  まだ上映が始まったばかりのアクション映画だったから、中原さんの後ろに大きな看板が立っていた。それを指差して教えると、楽しかった? って訊かれて、面白かったですよって答えた。  本当は内容なんてほとんど覚えてないんだ。隣にいる青のほうに神経も聴覚も向かってしまって、映画なんて観てる余裕がない。 「そうだ、俺、今月いっぱいでコーチやめるからさ」 「あ、そうなんですか?」 「そ。もう膝も順調に治ってるからさ」  そっか。でも、そうだよな。ずっと教えてもらえるわけじゃないし。 「怪我、良くなってよかったです」 「おう。ありがと。そんじゃ、また、練習でな」 「はい。宜しくお願いします」  まさかこんなところで遭遇するとは思わなかった。世間は広いようで狭いんだな。 「今月いっぱいだって。でも、今月ってまだ、七月なったばっかだった」 「うん、そうだね」 「……青?」 「んー?」  なんだろう。 「何? みつ」  なんで、青のことを今呼んだんだろう。よくわからないけれど、勝手に口が青の名前を呼んでいた。呼ばれた青は名前を言ったっきり何も言わなくなった俺を見て、笑って、そして、赤くなっていた額を指で突付いて、また、笑っていた。

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