人体の不思議――なんて、思った。 「……肩、痛い」 　ぼそっと呟く声がまだ震えてる。 「っ」 　油断したら、ほら、まだ涙が出てくる。あんなに泣いたのに、全然止まってくれない。どうしたら止まるんだろう。こんなに涙が出ても、まだ溢れる。そのうち、俺が干からびるかもしれない。 　それがいいな。 「……よいしょ」 　重たくて、どうしようもなく重たい身体を腕を支えにして起こすと、ラグの上にまたポタポタッ、って、涙がいくつも落っこちた。あっという間に吸い込まれて、ただの染みになるけれど、まだ、止まることなく流れるから、そのうちラグの色がここだけ変色するかもしれない。 　干からびて、枯れて、風にでもなんでもいいから、ここから吹き飛んでしまいたい俺は、ただラグに吸い込まれ続ける自分の涙をぼんやりと眺めていた。 　青に「別れよう。友だちに戻ろう。バイバイ」って言った。 　青を傷つけた。 　そんなことしたくなかった。バイバイなんて言いたくなかった。でも、青の夢を奪うことはしたくない。 　自分でそう決めて言ったのに、やっぱりこのままぺちゃんこに潰れてしまいたいくらい、悲しくて仕方がない。 　専門に入学しちゃえば、またそっから付き合おうよ、とか、今だけだからさ、とか、言えなかったんだ。思ってしまった。 「っ」 　ただ好きだけなのに、ねぇ、この「好き」は悪いことなの？　男同士だからって、そんな拒否されなくちゃいけないことなの？　俺は青のことが好きで、大切な人で、大事にしたいだけなのに、俺の持っている「好き」が一番青にとってダメなものなの？　あんなふうに嫌な顔をされなくちゃいけないものなの？ 　そう思ったら、今だけとりあえず別れようって言えなかった。真っ直ぐに俺を見つめてるだろう、青を俺が一番ダメにしているのかもしれないって思ったら、なんか、悲しくて仕方なかった。 　この「好き」を好きな人に向けてはダメだと世界中から言われているようで、たったひとりじゃ揺らいでしまう。青とふたりでなら、大丈夫って思えるのに、ひとりじゃ、こんなにも弱くなる。 「……充」 「！」 「いる？　もう、寝ちゃった？」 　お母さんだ。家帰って来てすぐ部屋に篭ったから。夕飯も食べてないし、お風呂もまだだから。 「……充？」 　お母さん、俺は――。 「……おやすみ」 　俺は、青のこと、普通に、ただ大好きなだけなんだ。 　毎朝四時起きしてる間、ずっと十時とかには寝ていたはずなのに、それでもすごく眠くてさ。授業なんてホントただの子守唄にしかならなくて、ずっと睡魔との戦いをしてるみたいなもので。本当に、本当に眠くて仕方がなかった。 　なのに、不思議だ。ちっとも眠くなかった。 　一晩中起きてた。というより眠れなかったんだ。目を瞑ると青のことを思い出してしまう。青のことを思うと、また涙が溢れて、目を瞑っても開いてもなんか視界はずっとぼんやりしてた。 「……」 　学校は休んでしまった。親にも嘘をついて、部屋にこもりっきり。トイレのために起き上がると本当に眩暈がするから、親は嘘だなんて思ってない。嘘は嫌いだ。言うと自分が苦しくなる。言われたほうを傷つけてることにも耐えられない。 　このまま、消えられるんじゃないか？　そう思えるくらいに何も欲しくなかった。 　昨日のお昼食べてから、そのまま何も口にしてないのに、腹も全然空いてない。何も食べたくない。どっかおかしくなったのかもしれない。いつもなら、細いわりに、益田と同じ位の量食べちゃうのに、俺の胃袋はもしかして涙になってラグにでも吸い込まれたんだろうか。 　あんなに泣いたのに。身体から水分があんなに流れたのに喉も渇かないんだ。ほら、やっぱりおかしい。 「っ」 　不思議だ。まだ溢れてくる。自分の手、指を見ただけで、それが見えなくなってしまうくらいに涙が溢れるから、慌てて手で拭った。拭っても、拭っても、まだ出てきて見えなくしてしまう。青とお揃いの指輪。 　おかしくなるなら、いいよ。おかしくなりたいよ。青に会いたいよ。ねぇ。 　もそっと起き上がって、重たくて大岩でも乗っかってそうな頭を自分の手で支えながらスマホを拾った。ベッドの上から、捨てたスマホを拾って、電源のボタンに触れる。ここを押して、電源を入れたら青の名前がたくさん出るんだろうか。そしたら、きっと俺は衝動的に電話してしまうと思う。 　声聴きたい。 　傷付けてごめんって言いたい。 　全部話して、それで――。 「……」 　それで？　あの子に言われたことを伝える？ 「っ」 　誰より大好きで大事で、大切にしたい。守りたいのは、青なのに？ 　そんなのダメだ。 「……みつ、いる？」 　扉の向こうから聞こえてきた声に全身が硬直した。 「俺、だよ」 　言われなくてもわかる。青だ。なんで？　だって、学校は？　今、何時？　慌てて時計を見たら、十時だった。学校に行って、それで帰ってきた？ 「おばさんにみつがどうしても提出しないといけないプリントがあるからって、言って、部屋に上がらせてもらった。ごめん、勝手なことして。でも、どうしても訊きたかったんだ」 　青だ。青がいる。 「ねぇ、みつ、俺、何かした？」 　青が扉の向こうにいる。 「なんで、バイバイなんて言ったの？　友だちでもいいと思ったって、本当？」 　青の声が震えてる。 「俺のこと、嫌いになった？」 「……」 「俺は、みつのこと好きだよ。ずっと、好きだ。今までと同じに、これからもずっと、変わらない。みつだけが好きだ」 　俺もだよ。青のことが好きだ。大好きで、大事で、何よりも大切だ。 「でも、みつの好きは俺の好きとは違ってきた？」 　違ってなんかない。同じだ。本当に同じだよ。 「友だちの好きと同じ？」 　そう言いたくて、勝手に零れ落ちる涙と同じくらい、俺の我慢なんて簡単に破って、「大好き」って、叫びそうになるから、必死に口元を手で覆い隠した。その手の甲を涙が濡らしていく。 「そう？」 　ううん。違う。そう答えたい。そう答えられるなら、いいのに。 「うん……そうだよ」 　青の耳に届きませんようにと願ったら、返事をする声がとても小さくなってしまった。でも、神様はその声をちゃんと青に届けてしまう。口にしていないから本心の代わりに、俺の言葉を嘘でもなんでも青のところに届けてくれる。 「……そっか」 　そして、今度は青の返事を俺のところに。指輪と一緒に戻してくれるんだ。 「青っ」 　小さな声でそんな返事が聞こえてすぐ、階段を下りていく青の足音が聞こえた。俺はその音が消えてから少しして、扉を開けて、そして踏んでしまったんだ。指輪を。 　青と俺が一緒に買った、ペアの指輪を踏みつけてしまったんだ。