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第11話
もう、悠真のプライドはズタズタだった。
あれほど、あれほど愛している人が、大切な宝物が、目の前で汚されていくのをただ呆然と見ているしかできない屈辱。
あれから何度か静の家を訪れたのだが、その姿を見つけることはできなかった。
恐らく、あの弟が連れ去ったのだろう。
とすると。
ーーもう、静さんと会うこともできない…
そもそも、合わせる顔がない。
こんな、無力な自分。
権力 が欲しい、なんて思ったこと、これまで一度もなかった。
自分の力で成し遂げたものではないことを、さも自分の力のように扱うことが、悠真は嫌いだった。
虎の威を借る狐、金魚の糞。
そういう風にはなりたくない、絶対ならないと努力を重ね、親や親類のことも極力誰にも話さず、自分は自分、そう思ってきた。
親が誰だ、性が何だ。
そんな下らないことで、人は他人を透明な視界で見ることができなくなる。
子供の頃からピアノが好きで、同級生の友達がゲームをクリアしていくように、悠真は次々と難しい曲を攻略していった。
最初は指が動かなくても、努力をすれば、譜面はそれを認めてくれた。
だが、世間はそうは思ってくれない。
「αの子はさすがね」
元々、積んでるエンジンが違うのよ、ということである。
別に、周囲がどう思おうと関係ないのだけど、それでも面白くはない。
その点、今の先生はαやらβやらΩやら、そういうことは一切気にせず、良いものは良い、悪いものは悪い、ハッキリ指導してくれる。
厳しい先生だが、良い師に巡り会えたと感謝している。
そういう、これまでの色々な思いから、自分は自分として、出来ることはやるし、出来ないことは分不相応なのだから諦める。
そうやって生きていく。
という気になっていた。
でも今は、その考えが如何に子供じみていたか、痛感している。
裏を返せば、手元にあるのは諦められるものばかりだったということ。
人は、どうして権力に阿るのか。
どうして権力を手に入れたがるのか。
わかったような気になっていた。
そしてどこかで、自分はそうはならないと思っていた。
だが。
全てを投げ打ってでも守りたいものがあるなら。
時に、己の安いプライドなんぞ、取るに足らないことがある、ということを身を以て知った。
何となく言い出す機会がなくて、静さんに言ってないことがある。
隠してるわけじゃないけど、あんまり積極的に言ってないこと。
あの日、テレビを見ながら静さんがお父さんを教えてくれたとき、オレも言おうと思ったんだけど、何となくいいそびれた。
ーーあの総理大臣 、オレの伯父さんなんだ。
それだけ言えば、きっと静さんは全部わかる。
あの人の妹がオレの母親。
オレの父親は、TAGという総合ディベロッパー企業の、社長。
兄貴が専務。
オレの大学の学費くらい、ポンと出せる家だ。
父、兄、どちらに相談しようかちょっと考えて兄貴にしようと決める。
兄弟仲は悪くはない。悪くはないが、身を粉にして働いている兄からすれば、自由なオレの生き方は面白くないのではないかと思うと、いつからか少し距離を置くようになってしまった。
だから、兄貴に会うのは久しぶりだった。
レッスンを終えて夜の8時頃、実家を出て、番 と2人で暮らしているマンションの一室を訪れると
「あれっ、悠ちゃん、久しぶり」
と、穂積さんがオレを出迎えてくれる。
「突然ごめん…」
「えっ、どうしたの急に?珍しいじゃん、なになに?ま、立ち話もなんだから入って入って!」
親族内では兄貴の分まで喋る、と言われている、明るくて賑やかな人だ。
オレも結構おしゃべりな方だが、今日はあまりそんな気分になれない。
「ありがとう…」
「ん?どうしたの?まあ適当に座ってね。今お茶入れるから。あ、お腹空いてない?パン食べる?」
ちなみにご実家がパン屋で「パン食べる?」は穂積さんの口癖みたいなもんだ。
「あ、ううん。いい、気にしないで。穂積さん動かしたって知られたら兄貴になに言われるか…」
「いいんだよぉー、遼さんはさ、ちょっと心配しすぎなんだよね。安定期に入ったらちょっとは動いた方がいいんだって」
「何ヶ月なんだっけ?」
「6ヶ月!」
そう、何を隠そう、お腹には2人の子供がいる。
話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてで、穂積さんは目立つようになってきたお腹をさすりながらよっこらしょっと動き回っていた。
「あの、兄貴って」
「まだ帰ってこないよ〜。いつも大抵10時すぎかな。遼さんに用事?待ってる?てかそれなら夕飯食べてく?」
「待たせてもらえればいいから」
「ヤだよ〜、悠ちゃんが待ってるとこ、ぼく一人でご飯にしろっていうの〜?なにそれ〜おかしいでしょ。ほら、大したものじゃないけど夕飯作ってるから。もうね〜、妊娠してるとめっちゃお腹すくんだよ。つわりが終わったら、驚くほどお腹すいちゃってさ、今日もたくさん作っちゃった。あ、遼さんに連絡いれとくね、カワイイ弟が遊びに来てるんだから、早く帰って来い!って。あ、それより、カワイイ義弟に迫られちゃうから、早く〜!の方が遼さん早く帰ってくるかも」
オレが返事をしなくても穂積さんは延々と一人で喋る。
何となく今のオレには笑えない冗談た。
「や、それはやめて…兄貴に殺されるから…」
「そう?でもさ、遼さんに用事って珍しいね。どうしたの?あ、遼さんに用事なのにぼくが聞いても仕方ないか〜。悠ちゃん、最近ピアノどう?また聴きたいなぁ〜」
「あ、うん…」
「…なになに?悠ちゃん、元気ないね?」
「そう?」
「だってさっきからぼくばっかしゃべってるんだもん」
「気付いてたの?」
思わずぷっと笑ってしまった。
「あ、ひっどーい」
そんなどうでもいい話をしていると、少し気が紛れる。
宣言通り、穂積さんは夕飯を用意してくれて、妊娠生活やら兄貴の惚気話やらを延々と語っていると、九時を少し回ったところで「ただいま」と声がした。
「お、帰ってきたね、遼さん、おかえり〜!」
バタバタと出迎える穂積さんに「出迎えに来なくていいから、走るなって」と慌てた兄貴の声が聞こえた。
「あ、お邪魔してます。久しぶり」
「……おい悠真、突然なんだ」
「えっ」
開口一番、不機嫌MAXな様子が伝わってくる。
まさか本当に穂積さんはあのメールを送ったのだろうか。
「久々の弟くんに怖い顔しないの」
そう言って頬にちゅ、とキスをしている。
普段の帰宅時間よりだいぶ早いところをみると、恐らく、兄貴は相当急いで帰ってきたに違いない。
「暇してるところ悠ちゃんが来てくれて楽しかったよ。遼さん、いつも帰り遅いんだもん」
「悪い」
「いいんだけど。お仕事がんばってるの知ってるしね。ねえねえ、お腹触って!」
そう言われると兄貴は無言で穂積さんのお腹を撫でた。
「ただいまーって。遼さんがただいまーってしてるよ〜。よかったねぇ」
これまで見た事もないような兄貴の一面を見て、オレはしばし無言になってしまった。
夕飯を済ませ、一息ついた頃に兄貴が「さて」と口火を切る。
「何の用だ?別に夕飯食いに来た訳じゃないだろう」
「…うん」
「あ、ぼく外した方がいい?」
穂積さんが気遣ってくれる。
どうだ、と兄貴がチラリとこちらに視線を向けてきて、少し考えて「穂積さんもいて」と答えた。
どう伝えればいいのか思案しながら、あらましを説明する。
静さんという大切な人ができたこと。
弟に無理矢理連れ去られてしまったこと。
静さんのお父さんは議員ということ。
「確かに、克彦さんに聞けば住所くらいは掴めるかもしれないが…」
克彦さん。
フルネームは宮嶋克彦、おれたちの伯父さん。今の総理大臣の名前。
「だろ?兄貴連絡先知ってたよな?」
「まあ待て」
片手でオレを制して、うん、と考えている。
「ただちょっと弱いな」
「弱い?」
「聞いた感じ相当執着しているようだし、いないってしらばっくれられるのがオチだと思う」
「…そんなの、押し入ればどっかにいるよ!」
「バカか」
「それはちょっと強引だねぇ…」
「だって拉致監禁だよ?」
「そんなもの、兄弟喧嘩で片付けられれば警察は動かんぞ」
「じゃあ、どうすれば…」
「その、なんだ、あれ、悠真は…」
何やら言いにくそうにしている兄貴の様子を見て、あ、と穂積さんが何か気付いたようだった。
「悠ちゃんはまだ噛んでないの?そしたら他人とは思われないよ」
ここ、と項を指す。
「遼さんは初めてでガブって、ね!」
ああ、うん、と隣で兄貴が少し居たたまれない様子だ。
それは要するに、もうセックスしたのか、ということで、兄貴が奥歯にものの挟まったような言い方をしたのもわかる。
オレだって別に兄貴の夜の話なんか聞きたくない。
「いや…」
「まだしてないの?」
「それはしました!」
したの〜え〜悠ちゃんてば〜!と面白そうになってる穂積さんを、まあまあ、と宥めて兄貴が話を進める。
「でもまだ番ではないと」
「…です。静さんが嫌がって…」
「うーん、そっかぁ…まあ、わからなくもないかなぁ」
「あ!」
「どしたの?」
オレはカバンをガサガサと漁り、あれを取り出した。
そう、お守りに持っていたーー
「婚姻届!」
2人がキョトンとする。
「サインだけ貰ってたの?」
「は?」
「まあ、ぶっちゃけこれはだまし討ちみたいな…婚姻届と言わずに書いてもらったんだけど…」
全く、我が弟ながらなんということを、と兄貴が頭を抱えた。
「相手が納得していないのに、入籍するなんて、どうかと思うぞ…結婚は一生のことだし…それに署名だけじゃ…」
そう渋る兄貴を横に「いいね!」と盛り上がるのは穂積さんだ。
「いーじゃん、悠ちゃん、それちゃっちゃと出しちゃいな!夫婦なら捜索願も出せるよ」
「だが…」
「いいいい!噛まれるよりよっぽどマシ!噛まれると本当に一緒束縛されるんだよ?その点婚姻届なんて、イヤだったら離婚すればいいんだし、全然大した事ないよ!」
オレたち兄弟にはちょっとわからないが、Ωである穂積さんに言われると説得力がある。
何となく背中を押された気になった。
「…うん!嫌ならすぐ離婚してもらう方向で…」
できればそうしないでもらえると嬉しいけれど。
「よし、わかった。じゃあ明日知り合いの弁護士に連絡とっておくから」
「弁護士!…会社のじゃないよね…?」
「当たり前だろ。小林という大学の同級生だ。まず戸籍謄本を取ってもらう」
てっきり書面さえ書けばいいのかと思っていたが、婚姻届には色々必要らしい。そこはさすが比較的最近婚姻届を記入した兄貴、色々詳しい。
「それって大丈夫なの…」
「まあだいぶグレーだな。だがお前がやると決めたんだろ」
うん、と首を縦に振る。
その通り、決めたのはオレだ。
「大丈夫、少しチャラいが話のわかるやつだ。仕事もできるしな」
兄貴がそういうならそうなのだろう。
「そして悠真、お前は未成年だからオヤジから署名をもらってくること。オヤジのことだから、それは問題ないだろ」
「オレもそう思う」
いきなり婚姻届持ってったら、多少は驚かれるかもしれないけど、自分で決めたことをとやかく言う親じゃない。
じゃ、と言って兄貴が立ち上がる。
「作戦会議はこれで終了。今夜は遅いから克彦さんに連絡するのは明日にしよう」
作戦会議、まさにその様相を呈していた。
いずれにせよ、今すぐにどうこうできるわけではなさそうだ。
うん、と頷いてお礼を言った。
「…ありがとう…ほんとに。オレ1人じゃ」
「いいよ、その静さんとやらに、オレが1人でやったんだって、手柄にしとけ。洗いざらい喋るなよ」
ほんっとに、お前は思ってることが全部口に出るからな、と兄貴は軽くため息をついた。
「いや、そこは騙せないよ。オレ洗いざらい喋っちゃうよ」
「…カッコつかない男だな」
「でもきっと静さん、いいお兄さんだねって言ってくれると思う。オレそう思ってくれたら嬉しいし。あ、一応一瞬でも家族になるわけだし…」
そこまで言うと兄貴が「あー、わかったわかった」とオレの話を遮るようにした。
「…勝手にしろ…」
穂積、風呂沸いてるか?と言って兄貴は部屋を出た。
「…なんか、遅くまで迷惑かけちゃってごめんね」
その様子を穂積さんはにこにこ…いや、どちらかというとニヤニヤと見ていた。
「全然!てか悠ちゃん、せっかくだしこのまま泊まっていきなよ!」
「いや、いいよ、悪いし」
「いいよ、うちは全然構わないよ!積もる話もあるだろうから」
「これ以上ないよ…」
「そ、そうだよね…確かに…積もってたね…」
ハハ、とオレは乾いた笑いで返す。
「それにほら、兄貴もなんかオレがいると機嫌悪く…」
すると穂積さんが「エ!」と声をあげた。
「全然!違うよ!遼さんは悠ちゃんが頼ってきてくれて嬉しいんだよ。今日だって、実は悠ちゃんが相談があるって来たよって連絡したら飛んで帰ってきたんだよ、あれは。それに今だって照れて出てっちゃったし…」
「…うそ…」
オレはてっきりあの冗談メールを送ったのかと思っていた。
だから兄が急いで帰ってきたのだと。
「本当だよ~10も離れてると弟が近寄ってきてくれないって…ん、まあ、そういう言い方はしないけど、平たく言うとね!そんな感じなんだから」
「オレてっきり自由に生きてる、出来の悪い弟のこと、あんまりよく思ってないのかと思ってた…」
「そんなわけないじゃん!こんないい子を…!遼さんは、本当に悠ちゃんのピアノが大好きなんだよ。高校の発表会だって時間があるとこっそり聴きに行ってたんだから」
「え!言ってくれればいいのに!」
「それが言えないんだよ」
ほんと、真逆だねぇ、と笑う。
「…照れ屋さんだから、今の話はナイショね。やっぱり下の子は何だかんだでいつまでも可愛いんだよ。ぼくも妹いるからわかるなぁ〜。それが10も離れてたら尚更だよ」
「そうなのかな…」
「そだよ。じゃあ今日はお泊りだね!」
あ、じゃあ布団出します!と申し出ると「よろしく!」と楽しそうな声が返ってきた。
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