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陽だまりのうた(番外編2)
積み上がった紙類、マグカップを洗いもせず継ぎ足されるコーヒー。
美しい音色を語る雑誌の編集部にしては、あまりにも汚い、と誰もが思っているがそれを変えようとする猛者はいない。
数名の社員が働く雑然とした小さなオフィスで白髪混じりの頭をした中年男性が左手に受話器、右手にペンを持ちながら電話をしてる。
「『musicus』編集部の土橋と申します」
「戻りましたー。あーっもーあっつ!暑くて死にますよ、外!!」
そこへまだ20代前半と思しき女性がやってきた。黒い髪を一本にまとめ、ネイビーとホワイトのボーダーの半袖カットソーにカーキのコットンパンツという地味めなオフィスカジュアルの服装をしている。炎天下外回りに行っていたのは大変だろうが、あまりにぐだぐだと大きな声で愚痴をいうものだから、土橋は人差し指を立て、シッと身振りをして眉を顰めた。
「あ、すみませーん」
「声でけぇよ、石原!」
「そーいう村田さんだって!」
村田、と呼ばれたのは30台半ばの男性で、この部署で最もクラシックが似合わなそうに見えるが、昔からクラシックが好きでこの会社い入社してきた人物である。
三者三様好みに違いはあれど、クラシックミュージックが好きなβだ。
2人の会話を迷惑そうに、しかし土橋は会話を続けている。
「ええ、ええ、そうです、ぜひお願いしたく…。え!本当ですか?ええ、勿論スケジュールをご確認頂いてからで…」
「土橋さん誰と電話してるんですか?」
「これ」
村田がぴらっとチラシを出して見せる。
「あああああー!」
そこには『三角悠真コンサート』という文字と、タキシード姿でピアノの前に立つ写真が印刷されていた。
「超かっこいい超かっこいい!死ぬ!」
「お前編集者のくせに語彙力が低いんだよ」
がちゃり。
土橋が受話器を置く。
「あのね、きみたち、なんで電話してんのに騒ぐの」
物腰の柔らかい編集長ながら、イライラしているのが伝わってきた。
しかし、そんなこと気にもとめないのが良くも悪くもハートの強い石原だった。
「え、編集長、もしかして三角さんと電話してたんですか?!」
「そんなわけあるか、マネージャーだよ」
「ですよね〜〜〜」
手渡されたチラシを石原はじっと見つめている。
「あ〜ん、私一度でいいから三角さんの『愛の夢』聴いてみたいー!」
「なにが『あ〜ん』だよ、おまえが『愛の夢』とかそんなキャラかよ、石原」
「今のセクハラですよ!村田さん!!」
「なーにがセクハラだよまったくめんどくせー時代だなぁ、オイ」
「村田さんの方がそんな粗野な感じでクラッシックが好きとか全然似合ってませんから!」
「ワイルドと言ってもらいてーな」
二人のやりとりを若干面倒臭そうに苦笑いしながら眺めていた土橋が口を開いた。
「まあね、確かにね。彼に『愛の夢』なんか弾かれた日には、老若男女誰しもメロメロだろうね」
「ですよね〜!さすが編集長、わかってるー!しかも、見た目も去る事ながらあの音!艶っぽくて、甘く切なく胸が締め付けられるようなあんなピアノ、三角さんしか弾けないですよ〜!んーでもチケット取れなくてCDでしか聴いた事ないですけど!」
あまりのテンションの高さに男性二人が若引き気味だ。
「そうだね〜。でも」
「何です?」
「『愛の夢』はしばらくは難しいかもねぇ…」
「何でです?!」
「お前、この編集部にいて知ねーのかよ」
「村田さん、知ってるんですか?!」
「ったりめーだよ。有名な話だし」
「何です?」
勿体ぶってないで早く言え、とばかりに石原が詰め寄る。
「三角さんはね、自分の番 がいない日にはその曲、演奏しないんだよ」
「えっ!」
「どうも、思い出の曲らしくってね」
「なんと!」
「残念だったな」
村田に至っては揶揄うような表情をしている。
しかし、一瞬の沈黙の後、石原が目をキラキラさせて再び捲し立てるように喋り出した。
「えーーっ!そういう話私大好きなんですけどー!一途な?純愛みたいな?きゅんきゅんしちゃいます〜!確かに確かに、学生結婚してるんですよね。この煮えきらねぇ世の中で、そんな若くしてね!もうほんとキュンキュンですよ!!え、でもなんでですか?しばらくって…」
煮えきらねぇって、石原相手じゃ男も怯む、と思っても敢えて二人は言わない。
「ああ、それは…」
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とある昼下がり。
悠真は依頼された作曲をするため防音室にいた。
恋愛映画のBGM、企画書を見ながら頭を悩ます。
ーー恋愛映画なんて普段見ないしなぁ…
言えないけど。
浮かんだフレーズを奏でては違う、あ、これ、そんなことをこのところ繰り返していた。
そんな中ブブ、とスマホが揺れる。
送信主は静だ。
画面を見ると
『来て!』
とそれだけ一言表示されている。
防音室に籠っている悠真に当然声は届かないため連絡手段は主にスマホを使ったメッセージのやりとりである。ただし、悠真がここに籠っているとき、仕事の邪魔をしてはいけない、と、静が連絡をしてくることは滅多にない。
その短文…というか単語のみのメッセージに事の緊急度合いを感じそそくさと防音室を出る。
出た途端、大号泣の大合唱が聞こえ、これはこれは、と小走りで静の元へ駆けつけると、こちらもあと少しで泣きそうな顔をしながら両手に赤ん坊を抱えている。
そう、今から遡ること約八ヶ月前。
静は子供を産んだのだ。
しかも、一卵性の双子をーー。
一人が泣き出すと、もう一人も泣き出す。
そしてまた質の悪いことに、それが競うように徐々に大きくなる。
こうなると親でもなかなか手に負えない。
いや、親なのに手に負えないというのが静を悩ませている最も大きな要因だろうと悠真は思っている。
真面目で何事もきっちりしたい性格の静にとって、どうにもままならない赤ん坊ほど大変なものはないようだ。
しかも少し前からハイハイができるようになり、もうひと時も目が離せないらしい。
「悠真ぁ…」
「大丈夫大丈夫!」
悠真の顔を見て安心したのか、本当に半泣きの静ごと抱きしめて額にちゅ、と軽くキスをして、淡い緑色のロンパースを着ている方を抱き上げて話かける。
「奏くん、きみは何がそんなに悲しいのかな…」
お互いの名前から文字を取り、上の子に青以 、下の子に奏真 と名付けた。
何となく名前のせいで、青以には青系の服を着せ、奏真には緑系の服を着せることが多い。
よーしよしよし、とあやしても彼らが手加減する様子は一切ない。
「なに?おむつ?」
「ううん、…たぶん、眠いんだと思う…」
「おお…オレん中で寝ぐずりって赤ちゃん七不思議の一つなんだけど…」
子供ができてから初めて知ったのだが、赤ん坊は眠いのに寝られず大泣きするのだ。
眠いなら眠ればいいのになぜ眠いのに寝ない。むしろなぜこんなに大泣きをする。
大人としてこれほど不思議なことはない。
「悠真、お願い…」
「うん」
ほら、と静の元へ奏真を戻すと、また兄弟仲良くぎゃあぎゃあと泣き喚く。
そんな3人を背に悠真は部屋の片隅に置いてある、静のアップライトに向かうと、優しく鍵盤を鳴らし始める。
ただのアップライトなのに、悠真が奏でると音が違う。
魔法のような指から流れる愛しい音。
「きらきら星だねぇ」
静が泣き止まない子供を横にして二人にそう語りかける。
「悠真の演奏会高いんだよぉ、贅沢者だねぇ」
「赤ん坊に何話してんの…」
気がつくと静の声が簡単に聞こえるくらい泣き声が細くなっていた。
これも七不思議の一つなのだが、悠真のピアノを聴くと二人は大人しくなる。
「お腹にいるとき、いっぱい聴いてたもんねぇ」
だから、きっと安心するんだよ、と静は言う。
悠真としては、それもあるかもしれないが、ほっとした静の様子に子供達も安心している、そんな気がしていた。
「なんだか懐かしいね」
静の声が耳に入り、ふと昔のことを思い出す。
静はつわりが酷かった。
そしてその時期は、家事をこなせないと気に病んでいた。
自分の食事もロクに摂れないくせに「疲れて帰ってきてるのに、ご飯も作ってなくてごめんね…」と悠真に謝ってきて、その度に悠真は胸が締め付けられる思いだった。
「そんなに真面目に生きてると早死にしちゃうから…」
そう冗談ぽく言うと、少しだけ笑って「そういうわけにはいかないね」とお腹をさすっていた。
そういうときはなるべく家を空けたくなかったが、そうはいかないときもある。
演奏会だの何だのと、一週間ほど帰れないときは毎日気が気ではなかった。
何より、一人で残る静の心細さを考えると心底辛かった。
もちろん静は悠真を引き止めたりはしない。
いつも笑顔でいってらっしゃいと送り出してくれた。
辛いときだって、我慢して見送ってくれたことに、悠真は当然気がついていたけれど、それを指摘したら静の気持ちが無駄になると思い、わざと気付かない振りをして出発した。
マネージャーに毎日「帰りたい帰りたい」と愚痴をこぼしては呆れられたものである。
それから数ヶ月して、つわりもほとんどなくなって、お腹が大きくなってきた頃、久しぶりに悠真のリサイタルに静が行きたいと言ってきた日があった。
「このタイミングで行かないと、もう当分行けない気がするし…」
「そうだね〜」
悠真もわかっていた。
お腹の双子が産まれたら、幼いうちはコンサート会場に連れてくるわけにもいかないし、乳児のうちは兄の家に預けるのも気が引ける。
「じゃあ、その日は目一杯愛を込めて演奏するからね」
そう言って悠真がにっこりと笑うと、静が顔を赤くした。
ーーもう、何年一緒にいても可愛いんだからなぁ。
その日以来、ステージで『愛の夢』は演奏していない。
唯一、悠真がその曲を演奏する場所は、このよく陽の当たるリビングだ。
聴衆はたったの三人。
しかもそのうち二人は、いつの間にやら泣き声が寝息に変わっている。
「よかった、寝たね」
ピアノを弾きながら背後の静に声をかける。
しかし、返事がない。
ちらっと様子を伺うと、双子に混じって静も寝息を立てていた。
思わず笑みが零れてしまう。
自分のピアノをBGMに、愛する家族がすやすやと穏やかに眠っている。
可愛い寝顔、可愛い寝息。
こんな幸せな光景があるだろうか。
演奏を終えると、三人にブランケットを掛け、キスをする。
「さて、お父さんは働きますかね」
んー、と背伸びをしながら、しかし足音を立てないよう防音室に向かう。
これまた不思議なことに、幸せに満ちた音が頭の中で鳴っていて、すぐに譜面に起こせそうな、そんな気がしていた。
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