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第2話

個人で仕事をするうえで、生活リズムを整えるということは非常に重要なことだ。 会社勤めをしている人なら、その始業に合わせて生活をしなければならないだろうけれども、個人でやっている分には、夜更かしも朝寝坊も自由気ままだ。 その分、規則正しい生活をするのは難しい。 だが、そこをきちんとしないとフリーでやっていけない。 だからぼくは起床時間、就寝時間、食事の時間をしっかりと定めそれを守るよう心掛けている。 実際のところ、就寝時間にベッドに入っても、なかなか寝付けず朝になることもしばしばだが。 でも、それはそれとして、7時ころには起床し、身支度と整える。 どこに出かけるわけでもないので、寝間着で一日中過ごしても問題ないのだが、そうしていると気分的にダメ人間になった気がしてきたので、一応シャツとチノパン程度に着替えるようにしている そうして、仕事モードにしてから経済新聞等に目を通してから取引に入る。 17時頃に終了し、その後は情報を仕入れたり、市場の勉強をしたりもするが、自由時間としてのんびり過ごすこともある。 いつものように出前を頼んでから、部屋着に着替えぼくの数少ない趣味であるピアノに向かう。 モノの少ない部屋で、凛とした存在感を出しているアップライト。 ピアノとしては決していい部類のものではないが、昨年そこそこの収益が出たので自分へのご褒美として思い切って購入したのだ。 ピアノの音がぼくは好きだ。 水滴が転がるような透明な音の粒がポロポロと、自分の中に染み渡る瞬間。 代わりに、溜まっていたドロドロとしたものが押し流されていくような感じがする。 親に感謝している数少ないことの一つがピアノを習わせてくれたこと。 古風なところのある両親が、将来αに気に入られるために、という想いで習わせたんだろうけれど、理由は何でもいい。 どうにも成長しなかった身長と同じように、手もピアノを弾くには残念なサイズで、ちゃんと弾けるとなると8度、と言ったところ。 でも、ピアノの音が好きなだけのただの趣味だし、もし10度弾けたところで、リストやらラフマニノフやらを弾くでもない。 仕事中もBGMにはよくクラシックを流しているけど、中でもやっぱりピアノが心地いい。 仕事が終わると、指の友をパソコンのキーボードからピアノのに変える。 この瞬間がここ最近の一番の幸せだ。 しばらくして、ピンポーン、とインターフォンが鳴る。 「毎度、本多軒です」 昨日のバイトくんの声だ。 「どうぞ」 とまたオートロックを解除する。 彼がここへやってくる間も、ぼくはのんびりピアノを弾いていた。 最近弾いているのは柔らかく静かな曲。 ゆったりとした曲を演奏していると、時間の流れもゆったりとしているような気になる。 ーーが。 あれ、と思う。 さっきオートロックを開けてからここに来るまでちょっと時間がかかりすぎてはいないだろうかと。 ぱっとピアノから手を離し、入り口に向かおうとしたところで声がする。 「本多軒です」 「どうも」 「……」 「……」 昨日の件もあってか、口数が少ない。 「昨日はすみませんでした…」 味噌汁の件についてか、発言の件についてか、あるいはその両方か。 目の前にはしょげにしょげているバイトくんがいた。 よくわらないが、そこまで思い詰められると、さすがにさして他人に興味がないぼくでも罪悪感に苛まれるではないか。 「いや、そんな気にしてないし。本多さんのご飯美味しいから」 そう言って愛想笑いする。 でも、ここの飯がうまいのは本当だ。 「ですよね!オレもここの蕎麦が好きで、そんでバイトさせてもらおうと思ったんです!だって、賄いとかも美味しそうじゃないですか!」 途端、元気を取り戻した彼の、尻尾が見えたら千切れんばかりに振っているだろうテンションの上がり方に、思わず、お手、と言いたくなってしまう。 「…よかったです」 「何が?」 「オレのせいでもう中丸さんが注文してくれなくなったらどうしようって思ってて」 「まさか」 この超引きこもりのぼくが、たかがそれだけで注文しなくなるわけないじゃないか。 と、思ったが、それを包み隠さず言う義理はないので言わない。 はい、と、例の大きな手に代金を渡す。 「あ、あの、そうだ」 「はい?」 「さっきの、中丸さんが…?」 「えっ」 「ジムノペディ」 「聞こえたの?」 「ええ、まあ、ちょっと、ここに来たら」 少し照れながら、肯定している。 「だから遅かったのか」 「あっ」 途端しまった、という顔になる。 ぼくはその様子がなんだかおかしくて、失礼かと思ったが思わずふっと笑ってしまう。 「とても人に聴かせられるようなものじゃないんだけど」 「いえ、ああいう音は、心の濁ってる人には出せませんよ」 「…それはどうだろう」 「いえ、絶対そうです!」 これまでのあたふたした彼とは違って、妙に自信ありげに断言するからぼくはちょっとたじろいだ。 「…随分詳しいみたいだけど」 あの曲を聴いて、聴いた事がある、という人はいるだろうけれど、興味がなければ曲名まではなかなかわからないんじゃないかな、と思う。 「オレ、ピアノ科目指してるんです、芸大の」 「えっ、すご…」 「いや、別にすごくはないですが…」 「十分すごいよ、羨ましい。未来のピアニストかな、聴いてみたいな」 「ほんとですか!よかったら今度弾かせてください」 なんちゃって、と言った彼は言ったのに「なんちゃって」のところとぼくの「え、いいの?」が被った。 「え!いいんですか!」 「え、なんちゃってなの?どっち?どっちなの?」 「ぜひ!弾かせてください!」 「いいけど、やっすいアップライトだよ?」 「弘法筆を選ばず、です。あ、弘法に至ってないけど」 そう言って照れ笑いを浮かべる姿がまだあどけない。 何となくその流れで、週末彼がうちに来ることになった。 他人を上げた事のないこの家に、まさかあんな若い、しかもよりによってαの男の人を招くことになるとは、とよくよく考えると我ながら驚きだが、楽しみにしている自分がいるのもまた事実だった。

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