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第4話

あれから妙に懐かれたようで、三角くんは忙しいであろうスケジュールの合間を縫ってうちに遊びにくるようになった。 楽器の演奏ができるのが朝9時から夜9時までのため、来るとしたら大抵休日。 出前のついでに「今週行ってもいいですか?」と聞いてくる。 週末に予定があることなんてないから、ぼくの返事はいつも「OK」だ。 「いよいよ梅雨、入っちゃいましたね」 今にも降りそうな重く暗い雲。 「イヤな季節だね〜」 「ほんと、雨の出前大変なんですよ…」 はぁ〜とため息をついて三角くんが訴える。 「じゃあ自粛しようかなぁ」 「えっ」 顔がさっとこちらに向く。 「自粛しないでください!静さんちには雪が降ろうと槍が降ろうと出前しますから!」 「ははは。良かった」 毎度、どうでもいい世間話をして、気が向いたら三角くんがピアノに向かう。 そして「さあ、何でも」とリクエストに応えてくれる。 さすが、何でも、というだけあって、ぼくがリクエストする曲をジュークボックスかのごとく演奏してくれる。 曰く「初見でだいたい弾けるし、一度弾いたらだいたいは忘れない」だそうだ。 「今日はどうしますかね」 「んー、オレ的にはたまには静さんのも聴いてみたい」 「え、ヤだよ!」 「なんで?弾けるでしょ?この前『ジムノペディ』弾いてたじゃん」 「あれは自己満足」 「これだって自己満足以外の何物でもないですよ」 「そういうことじゃなくて、三角くんみたく本格的にやってる人の前で弾きたくないの」 恥ずかしいじゃん、と呟くと、「そんなことない」と否定された。 「このアップライトだって、静さんが弾くために買ったんでしょ?」 「一人のときは弾いてるよ」 「ひどい」 「…なにが」 「オレだって静さんの聴きたい!」 聴きたい!って、まるで駄々っ子だ。 これでイヤだと言い続けでも、弾いて!弾かない!のやりとりが延々続きそうな気がして根負けしそうになったとき「あ!」と何かひらめいたように三角くんが大きな声を出した。 「座って座って」 そういうと三角くんが立ち上がり、いたずらっ子のように椅子を指す。 「座って座って」 「あーもう、わかったよ」 しょうがない、言われるままに椅子に腰掛ける。 三角くんの高さに合わせたままの椅子は、ぼくには少し高かった。 ちょっとの違和感に気を取られていると、突然後ろからすっと手が伸びてくる。 予想外のことに驚いて体がびくっとなってしまった。 ーー抱きしめられるかと思った…。 まあそんな筈もなく、その様子を見て、頭の上から覗き込むように三角くんが「ん?」という顔をする。 見上げる距離が近い。 甘く爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。 驚いたのと、その距離感で心臓のどきどきが止まらない。 顔をさっと鍵盤に向けると三角くんの右手が鍵盤の上で滑らかに動いた。 「あ」 「知ってる、でしょ」 「うん」 三角くんが弾いたのは有名なアニメ映画の曲の最初の方の部分だ。 「こんな感じでだいたいメロディーなら弾けますか?」 「と、思う」 「好きに弾いてくれれば大丈夫です」 「え?」 そう言って、よっこいしょ、とぼくの左側に座る。 「オレ、セコンドします。入りは合図しますね」 「ん」 理解した。 連弾ならいいだろう、と彼は考えたらしい。 星のきらめく夜空を、スーっと滑るような前奏が始まる。 この上を、ぼくが弾くのかと思うと、心の準備も整わないうちに三角くんが合図をくれる。 「はい」 えい、と思い切って音に乗ってみる。 譜面もない状態で弾くのは不安だったけど、乗っかってみると、さすがの安定感に、なんだか自分が上手くなった気さえする。 「あ」 まちがえた。 思わず口に出る。 余裕をこいているとこういうこともあるけれど。 ふふ、と隣で笑っているのがわかる。 「適当におかず入れてもいいですよ」 「むりむり」 「歌ってもいいですよ」 「話しかけないでー!」 必死でつかまっているぼくと違って余裕の三角くんは完全におもしろがっているとしか思えない。横で一人二役口ずさんでいる。 「ドイツ語は」 悔しいのでちょっと意地悪してやる。 「え、ドイツ語?魔王なの?」 ちょっと何かをしようとしたがすぐ「オレ、まだそこまで達してないです、すみません」と何かを諦めたようだった。 そうこうしているうちに音の散歩も終盤だ。 「最後ritしますね」 楽しくなってきたところなのに少し寂しい。 視線を合わせ、タン、タン、と体を揺らしてテンポを合図を出してくれる。 「お〜!」 「お〜!」 思わず向かい合ってお互いに拍手を贈り合う。 「感動〜!」 三角くんは一際嬉しそうだった。 「そんなに?」 「そんなに!お礼にまた何でも弾くんで言ってください」 「ふふ、ありがとう」 どうしようかな、考えながらダイニングの椅子に座る。 「うーん」と少し考えていると雨音がする。 「あ、降ってきちゃったね」 「ですね」 「そしたら、何か雨の曲は?」 「雨かぁ。そうだな…」 しばし考えたあと、滑らかなアルペジオが始まる。 そうして奏で始めた曲は、ぼくが少し想像したような静かな「雨」ではなかった。 『テンペスト』 その名から伝わる通り、激しく、重厚感のある曲。 雨量で言ったら大雨。暴風雨。 本当に大雨に降られたらたまらないが、降り注ぐ音の雨に不快感はない。 何度か聴かせてもらって気がついたのだが、彼はどちらかというとロマンティックな曲よりも、こういう激しい曲が得意らしい。 あの恵まれた体格と、生まれ持っての才能なのか、意外、と言っては失礼かもしれないが、あんな天真爛漫な性格なのに、弾く演奏はきっちりとしていてリズムがへたったりすることもない。 パチパチパチ、演奏を終えた彼にぼくだけのささやかな拍手が贈られる。 「さすが、すごいね」 迫力の演奏のあと、本当に、この拍手だけで申し訳ない。 「いや、全然ですよ…この前もレッスンで散々…」 「注意されるの?」 「注意どころかめっちゃ怒られますよ」 「そうなの?ピアノの先生ってなんか、おっとりとしたお嬢様みたいなイメージがあるんだけど…」 「全然!それほんと、ただのイメージですよ。そもそも男だし、オジサン…ていうかおじいさんに近いし、先生めっちゃくちゃ怖いですよ…」 口も悪いし…、と辟易した様子で三角くんが言う。 「どんな?怒鳴るの?」 「怒鳴るとか普通です。この前なんかショパン弾いてたら童貞呼ばわりされました…」 「あっはっは!」 「聞いてる分にはおもしろいかもしれないですけどっ!」 ぼくの大笑いに三角くんは明らかにむっとしている。 「ショパンあんまり得意じゃないんですよね〜」 そう言いながらぽろぽろと適当に『小犬のワルツ』を弾いている。 「あ、確かにあんまり弾いてるの聞いた事ないかも」 それにしてもピアニストを目指していてショパンが苦手とは…。 言われなくても本人も重々承知しているのだろう。 ピアノから手を離し椅子に座ったままぶーたれている。 「否定したら更にそういうところが童貞なんだよって、もうオレ、傷つきまくりですよ…」 そう言って盛大なため息を零して、指で適当な鍵盤をはじく。 ん、ちょっと待って、「否定したら」って、もうそういう経験あるのか。 うん、まあ、そうか、彼くらいともなれば、当然だよな。 なんかちょっとだけ凹んでいる自分にちょっとびっくりする。 「…どうしたんですか?」 「いや、あ、でも、なんか、先生の言うこともわかる気がするって」 「!!静さんまで!ひどい!!」 もーオレショックでほんとインポになるかも、といよいよ床でのたうち回り始めた。 「あ、違う、なんていうか、三角くんは全然童貞に見えないから、そこは安心して!」 ちょっと、何てフォローを入れてるんだと思いつつ、そうでもしなければ彼の男性としてのプライドが回復しそうになかった。 「ほんとですかー」 「ほんとほんと。だから実際のところがどうかではなくて」 「あ、それ先生にも言われました。『てめぇの実際の性生活聞いてんじゃねぇよ』って」 「うん、そうだね、そういうところだよね」 「え?」 「三角くん、ちょっと、っていうかかなり心の声が口に出ちゃうから」 「よく言われます〜」 オレとしてはこれでも全部口に出してないつもりなんですけどー、と言っているが、本当のところどうなんだろう…。かなり出ていると思うのだが…。 「素直なのは三角くんの長所だと思うけどね、なんていうんだろ、んー、それを心に秘めてピアノで伝えてみたら?どう?」 しばらく、ん?ん?という険しい顔をしたあと、がばっと起き上がって 「…!静さん…天才…!」 と言われた。 「…あ、ありがとう…」 ふぅ、と一呼吸すると、三角くんを取り巻く雰囲気が変わった気がした。 「最後に一曲、弾いてっていい?」 「勿論、何曲でも。ショパン?」 どうぞ、と手を向けると、「ひみつ」と言って再びピアノに向かう。 「今日はこれ最後の一曲にする」 やはり、ピアノに向かっているときのこの男は最高にかっこいい、と思う。

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