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番外編 Happy Birthday dear K

「全く……誰の誕生日なのかわからないね」  リビング中に散らばったクラッカーの塵を拾い集めながら、英司が苦笑した。  ケーキを食べ終えた皿を洗っていた芳は、「でも楽しかったよ」と笑いつつ、キッチンからパートナーの後ろ姿を眺める。  今日は、芳の誕生日だ。  子供達はそれぞれ手紙や折り紙をプレゼントしてくれて、英司は隣町からケーキを買ってきてくれた。  夕飯の後、ケーキやクラッカーで芳以上に盛り上がった小さな怪獣たちは、後片付けもそこそこに疲れ果てて眠ってしまった。  つい先程までの喧騒が嘘のように、静まり返ったリビングの片隅には、花芳がプレゼントしてくれた鬼灯の鉢植えが置かれている。まだ実の時期には早く、伸びた茎の先にクリーム色の小さな花がポツポツと咲いている。 「あの鬼灯は、芳さんがリクエストしたの?」  片付けを終えた英司が、カウンター前に置かれたスツールへ腰を下ろした。  ダイニングテーブルは別にあるが、夜二人で飲むにはカウンターの方が勝手が良い。子供達が眠った後、月村家のリビングは簡素なバーに様変わりする。  英司専用のグラスにワインを注ぎ、自分用には梅酒ロックを用意して、芳はキッチンから出ると英司の隣に座った。 「前に、何となく育てたいって言ったの、覚えててくれたみたい」 「芳さん、そんなに鬼灯好きだった?」 「んー……なんかさ、鬼灯って俺に似てる気がするなと思って」  似てる?、と続きを促すように、英司が視線を向けてくる。  英司と出会う前の芳には、料理を教えてくれた父との時間以外、ろくな思い出がない。そんな中で、唯一色濃く脳裏に焼き付いている風景がある。  民家の庭先で赤い実をぽってりと膨らませた、いくつもの鬼灯。  多分、小学校に上がって最初の夏だった。  鬼灯の実る民家は、小学校のすぐ側、通学路沿いに建っていた。古びた平屋の一軒家。  当時、鬼灯なんてものを知らず、初めて目にした芳は、てっきり野菜の一種なのだと思っていた。母親は朝食など用意してくれなかったので、 空腹で登校する芳の目に、鬼灯の実は一際鮮やかに映った。  きっとあの実を齧ったら、トマトみたいに瑞々しい味が口いっぱいに広がるんだろう───そんなことを思いながら、毎日眺めていたからだろうか。ある日の下校中、その民家の主らしい老人から声を掛けられた。  素直に「あの赤い実が食べたい」と訴えた芳を、彼はまるで孫を見るような顔で笑った。  鬼灯という名前。そして鬼灯には観賞用と食用があり、芳が毎日見ていた鬼灯は前者で、苦くてとても食べられないことを、老人は芳に教えてくれた。  彼が芳くらいの歳の頃には、音を鳴らして遊んだのだと、笛の作り方まで教授してくれたが、思いの外薄い皮はすぐに破れてしまって、芳には作れなかった。  美味しそうだと思っていた実が食べられないということにも、風船みたいな皮に包まれた中身が随分小さかったことにも、子供ながらに落胆したことを覚えている。 「……それが、芳さんと鬼灯が似ている理由にどう繋がるの」  芳の思い出話に耳を傾けていた英司が、静かにワイングラスを揺らした。芳も、自家製の梅酒を一口呷る。梅の酸味が、ふわりと鼻へ抜けていく。 「英ちゃん、鬼灯の花言葉って、知ってる?」 「さあ? 花は詳しくないから」 「俺、それからすぐ引越したんだけど、気になって図書館で鬼灯のこと調べたんだよね」 「芳さんて、割と知識欲強いよね。この町に来たばかりの頃も、数田美町について図書館で調べてたし」  感心したように、英司が眼鏡の奥の瞳をほんの少し見開いた。  芳は、昔からよく図書館へ通っていた。それは決して、本が特別好きだったからじゃない。  単純に、居場所が無かったからだ。  娯楽も何も無かった芳にとって、好きなだけ本が読めて、おまけに空調も完備されている図書館はとても有り難い場所だった。夏と冬は、ほぼ毎日通い詰めていたくらいだ。  そうやって図書館を拠り所にしていたから、何となく気になった本を手に取ることも、いつしか癖になっていた。 「本の受け売りだけど、鬼灯の花言葉は『偽り』なんだって。……俺さ、時々わからなくなるんだよね。ホントの自分が何なのか」  隣に座る英司の空気が少し強張るのが、軽く触れ合った肘を通して伝わってくる。  気がつけば、いつどんな状況でも笑えるようになっていた芳は、ヘラヘラしてばかりで中身のない人間だと思われることも少なくなかった。  愛想良くしていなければ客なんて取れなかったし、いつも適当に笑って、言われるまま相手に従う。大抵の事は、それでどうにかなった。  だから、今になってふと思う。  英司の前で、子供達の前で、この町の人々の前で笑っている芳は、果たして本物なんだろうか、と。  目の前のグラスの中で、溶け始めた氷がカランと音を立てる。  歳を重ねるにつれ、本来の自分がこの氷のようにゆっくりと溶け出して、いつしか消え失せてしまいそうな焦燥感に襲われる。  芳の記憶からいつまでも鬼灯が消えないのは、小さな実を大きな皮で包んだあの姿が、自分と重なる気がするからだ。  皮を全て剥ぎ取ってしまったら、後には一体何が残るのだろう。 「英ちゃんも、花芳も、英も司も、この町のみんなも……全部大切で大好きなのに、ヘラヘラ笑ってる俺って実は偽りなんじゃないかって、怖くなるんだ」 「今は、ヘラヘラ笑ってなんかないよ」 「酒入ってるからだよ」  昔から、芳は飲むと弱音が零れやすくなる。英司と番うまでは、誰かと飲むのが酷く苦手だった。  ワインを飲み干した英司が、空いたグラスを静かにカウンターへ下ろした。 「芳さんが怖いのは、本当の自分を暴かれることでしょ」 「え?」  首を捻ると、真っ直ぐにこちらを見据える英司と目が合う。芳の些細な変化すら見逃さないとばかりの鋭い視線。 「いつも笑っていないと、誰にも受け入れてもらえないと思ってる。……違う?」 「………」 「芳さんは人の心に敏感だから、自分が笑ってなきゃって、気負い過ぎてるところはあるよね」  落ち着いた声音で、英司が言う。  機械だなんて英司は自嘲していたけれど、芳は出会った頃から一度もそんな風に感じたことはない。  英司の言葉には、確かな熱がある。音も立てずに燃える、青い炎のような熱さ。 「……俺は、笑わずに人と話すってことが、出来ないだけだよ」 「だったら、それでも良いんじゃないかな」  纏めた長い髪の下へ滑り込んできた英司の手が、頸に残る傷痕を確かめるように撫でる。 「言ったよね。芳さんは、僕のパートナーだって。仮に笑顔の下から猛毒の実が出てきたとしても、僕にとっては偽りでも何でもない。どんな姿でも、目の前に居る芳さんが真実だ」 「英ちゃん……」 「笑いたいときは笑えばいいし、弱音を吐きたいなら飲めばいい。泣きたくなったら泣けばいいし、上手く泣けないなら、僕がいつでも泣かせてあげるよ」  その言葉だけで、情けなくも目頭が熱くなって、芳は無理矢理ぎこちない笑顔で誤魔化した。やっぱり芳には、上手く泣くことなんて出来ない。  泣かない芳の前を、「都合が良い」と適当に通り過ぎていく人間ばかりだった中で、英司だけが、初対面から芳を叱ってくれた。向き合う価値を与えてくれた。 「狡いなぁ、英ちゃん。カッコ良すぎ。何回でも惚れる」  甘えるように肩へと頭を乗せた芳の顎を、英司の手がやんわりと捕らえて持ち上げる。 「でもさすがに今日くらい、泣かせるのは止めておこうかな。……誕生日おめでとう、芳さん」  優しく紡ぐ唇を、芳の方からキスで塞いだ。  ワインと梅酒の酸味が、二人の間で溶けて混ざり合う。  芳の内側に潜む本心がどんなに醜くてちっぽけでも、英司ならきっと、その全てを引き受けてくれる。芳に「生きろ」と言ってくれた、ただ一人の相手だから。 「ありがと、英ちゃん。折角の誕生日だからさ、俺が英ちゃんに『泣かせて』ってお願いするのは、アリ?」 「それなら勿論、お望み通りに」  英司の指が、慣れた手付きで芳の髪を解く。  今では英司の為に伸ばし続けている髪。英司の為にあるこの身体を、奥底まで暴いて安心させて欲しい。  英司の傍で育てる鬼灯の実は、昔よりずっと、愛おしく思える気がした。

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