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番外編 ワンライお題『日記』
夜勤明けで昼過ぎに起き出した英司がリビングに入ると、芳と花芳が、ダイニングテーブルで顔を寄せ合うようにして向かい合っていた。
「あ、英ちゃんおはよ」
英司の気配に気付いた芳が、パッと素早くこちらを振り返る。
「おとーさん、おはよう」
続いて挨拶をくれた花芳は、一瞬だけ英司に視線を寄越したっきり、真剣な顔でせっせと手を動かしている。その手元には、色鉛筆と一枚の紙。
「芳さんも花芳もおはよう。……なに描いてるの」
英司の遅い昼食を用意しに、キッチンへ立った芳と入れ替わりで、英司が花芳の向かいへ腰を下ろす。
「絵日記だよ。夏休みの宿題」
冷蔵庫から玉子を取り出した芳から、先に答えが返ってきた。
作業の邪魔をされたくないのか、手を止めないまま花芳がコクリと小さく頷く。
「幼稚園でも宿題なんてあるんだ」
「絵日記一枚だけどね。勝ちゃんたちと一緒にキャンプ行ったときの絵、頑張って描いてる」
芳の声に、ジュワッとフライパンに玉子が流し込まれた音が混ざる。英司の好きなだしの香りが、フワリと遅れて漂ってきた。
和食が好きな英司に合わせてくれているのだろう。月村家の食卓は、子供たちからリクエストが無い限り和食が多い。子供が喜ぶハンバーグや唐揚げなどのときでも、英司には大根おろしを添えて、さり気なく和風にしてくれる。
どこまでも、英司を喜ばせる天才だと、カウンター越しのパートナーを眺めていた英司は、そこで漸く家の中が随分と静かなことに気がついた。
「そういえば、英と司は?」
「庭でプール遊び中」
「ねぇ、プールまだ片づけない?」
英司と芳のやり取りに、花芳の必死な声が割り込んできた。思わず、といった様子で、色鉛筆を握る手が止まってしまっている。
「もしかして、早くプールで遊びたいから、絵日記頑張ってるの?」
英司が訊ねると、花芳がキュッと眉根を寄せた。
「だって、もうすぐ夏休み終わっちゃう」
「二人が遊び始めてまだ三十分も経ってないし、そんなすぐに片づけないから大丈夫だって」
芳の言葉に安堵の息を吐いて、花芳は再び絵日記に向き直った。
そうして花芳が絵日記を完成させたのと、芳が英司の食事をテーブルに並べてくれたのとは、ほぼ同時だった。
「終わった……! わたしも遊んでくる!」
いつもは几帳面な花芳が、後片づけもそこそこに、大急ぎでリビングを飛び出していく。
「ビニールプールって、なんであんな魅力的に感じるんだろ。俺も小さい頃憧れてたなー。泳げるようなサイズでもないのにさ」
箸を進める英司の向かいに座って、置き去りにされた絵日記を手に取りながら芳が笑う。
「僕は積極的に外で遊ぶ子供じゃなかったから、当時は特に思い入れもなかったけど、今になって、自分が如何に恵まれていたのかがわかるよ」
芳に出会っていなければ、もしかすると今でも英司は、自身の恵まれた境遇を自覚出来ていなかったかも知れない。
「……夏休みの宿題でさ。一行日記みたいなやつ、無かった?」
「毎日書くっていうやつかな? 小学生の頃はあった気がするけど」
「俺、アレ大っ嫌いだった。夏休みにどっか連れてってくれるような親じゃなかったし、平日も休日も関係無いような家だったからさ。書くことなんか全然無くて」
言葉とは裏腹に、懐かしむような優しい声で芳が紡ぐ。
「……毎年、どうしてたの?」
「んー、その時々で適当。真っ白で提出して怒られたり、めちゃくちゃふざけて嘘ばっか書いたり。どっちにしろ、虚しかったよ。でも───」
そこまで言って、芳は英司に見えるように、花芳の絵日記をそっとテーブルへ置いた。
「今なら毎日、いくらでも書くことあるんだよね。笑わない日が無いから」
絵日記には、テントの傍でバーベキューをしている様子が描かれていた。幼稚園児の絵とはいえ、眼鏡や髪の長さで、英司や芳の特徴がちゃんと表されている。
二週間ほど前。熊谷家と一緒に、英司たち一家は隣県との県境にある山へキャンプに行った。
熊谷は子供の頃から何度も経験しているそうだが、芳も麒麟も子供たちも、全員キャンプは初体験だった。英司も元々アウトドア派ではないので、幼い頃に一度だけ家族でロッジに泊まったことがあるくらいだ。
月村病院の仮眠室ならともかく、不慣れな場所で寝るのがあまり好きではないのだが、子供たちと一緒になってはしゃぐ芳を見ていると、案外キャンプも悪くないなんて思ってしまった。
そのときの光景が鮮明に蘇るほど、花芳の描いた絵の中で、英司も芳も満面の笑顔を浮かべている。
「僕も正直なところ、毎日日記を書くのは億劫だったよ。そう変化のある日々を過ごしていたわけじゃないし。だけど、今なら僕もそれなりに書けると思う。食事一つとっても、毎日豪勢だからね」
「あ、俺ご飯の度に英ちゃんの反応見るの、密かな楽しみだったりする。今ならそれで日記書けるなー」
「天気じゃなくて、僕の顔色を記録するの? それこそ、大して変化も無さそうだけど」
「わかってないなぁ、英ちゃん」
意味ありげに口端を上げて、テーブル越し、芳が不意に身を寄せてきた。和風だしの香りに、芳自身の甘い匂いが混ざる。
「言ったじゃん。英ちゃんは機械なんかじゃないって。だし巻き玉子作ってるとき、嬉しそうな顔してくれてた」
顔に出したつもりは無いのに、核心を突かれてつい顔を引き締める。それを見て、芳がまた笑った。
「ほら、そういうとこ。英ちゃん、結構顔に出るんだよ」
「そんなつもりは無いけど」
「無自覚なら、尚更可愛い」
「可愛い?」
「あっ、嘘! イケメン!」
慌てて言い直した芳の唇が、宥めるように英司の唇を掠める。
こんな時、例えどんなに危なっかしくても、芳は英司より年上なのだと思い知らされて、歯痒くなる。
「 ……どうせなら、エッチの時の英ちゃんの顔も、日記につけとく?」
「書いたら五倍返しだよ」
「せめて三倍にしよ!?」
昼下がりのリビングに、芳の賑やかな声が響き渡る。
子供たちの居る夕飯はきっと更に賑やかで、芳はずっと笑っていて。
そんな芳の笑顔を毎日記憶に焼き付けていくのは、英司にとっても幸福な日課になる気がした。
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