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3. 記憶喪失事件 3

「へー、じゃあ俺はお前と暮らしてんの?」 「...そう。だけどここの部屋の名義はアンタだし、俺はあくまで居候。」 「ふーん?ま、何でもいいけど。つかそのアンタって言うの止めない?なんか腹立つ。」 「...やだ。」 弥生が記憶喪失になって2日目、他に帰るところの無い俺は弥生と暮らすあの部屋に居た。 今の弥生を『弥生(ミキ)』と呼ぶのはどうしても嫌で、そして記憶の無い弥生が自分を『千裕』とあの声で呼ぶことに耐えられなくて、俺はアンタと素っ気なく呼び、自分の名前は教えなかった。 だけど弥生はそのことだって深く気にはしていない。俺は今の弥生にとっては『ただの居候の男』で恋人なんかじゃない。それが分かっているからこそ、弥生と顔を合わせるのが苦痛だった。 ーーキャバクラからの帰り道、渋る暁斗さんに無理矢理お願いして弥生の荒れていた時代の話を聞いたけど、それは俺が聞いていた以上に女遊びが激しかったってことが分かっただけだった。 その頃弥生のお母さんが亡くなって、お母さんっ子だった弥生はショックでおかしくなっていたと何度も言った暁斗さんは、弥生が夜になるとフラリと外へ出て、声を掛けられた女の子とそのままホテルに直行する生活が続いていたことを教えてくれた。 『さみしい』の一言が口に出せなくて、それを埋めるかのように見知らぬ女の子と一夜だけの関係を持つ。 付き合うことはしない、しつこい子にはキツイ言葉を浴びせて何回も泣かせていたってことも聞いた。 階段から落ちた日、俺が仕事から帰ってくる前に『どこまでの記憶があるか』と暁斗さんが訊ねると、弥生の答えは暁斗さんが知る中で最も酷く荒れていた時期。 俺とも響くんとも出会う前で、弥生が暁斗さん以外の人を信頼していなかった、そんな時期だった。 それを聞いた俺は、三人にあるお願いをした。 付き合うことを嫌がり、しつこく迫る子に酷い言葉を浴びせたと聞いたことで怯えてしまった自分が居たのかもしれない。 「弥生には、俺と付き合ってることを言わないで欲しい。」 自分は職場が同じのただの同居人、それだけの関係だと言って欲しいと頼んだのだ。 来たときはあんなにイライラしていて、浮気現場を見たらぶん殴ってやる!と思っていたくせに、帰り道を歩く俺はただただ弥生が自分から離れていかないかが不安で仕方なかった。 いつ戻るのか分からない記憶。 明日病院に連れて行く、と暁斗さんは言ってたけれど、もしかしたらもう二度と戻らないかもしれない。 そうなれば自分は?弥生の恋人として過ごした時間はどういなる? 喧嘩ばかりしたけれど、しつこいくらいに愛を貰った俺が今さら弥生無しで生きていくなんて出来やしない。 だからこそ、俺は弥生の記憶が戻ることを神様に祈りながら、『恋人』として側に居るのではなく『他人』として側に居ることを選んだのだ。 ***** 弥生の状態を説明し、落ち着くまで弥生は『療養』という形で仕事を休むことになった。 山元さんがその場にいたおかげか、弥生が休んでいる間は仕事を把握している響くんがデザイン部に戻ってきて、俺と響くん、それから部署のみんなでなんとか仕事を分担し進めることに。 だけどその時俺は弥生がどれだけ働いていたかを初めて知った。 俺たちがこなす量を遥かに越えた、あり得ない量の仕事。それをヘラヘラ笑いながら、たまに俺にちょっかいかけてタバコ休憩まで取って、なのに定時までに片付けていただなんて信じられない。 弥生の居ないデザイン部はまとまりが無く、いつも弥生のおかげでこの部署は回っていたんだと実感した。 それはマンションに帰ってからも同じで、弥生がどれだけ俺に尽くしてくれていたかを思い知った。 俺より早く起きて朝ごはんを作り、夜だってソファーでゴロゴロする俺のために文句言わずご飯を作ってくれた。 掃除も洗濯も全部していたのは弥生。 それが『俺にしてあげたいこと』だと言われたから何も気にせず頼っていたけれど、あれだけの仕事をしながら俺の世話までしていただなんて、弥生はスーパーマンみたいだ。 「...俺...何も出来ないや...」 料理も家事も、何一つやり方を知らない自分。 それがこんな形で気付かされることになるだなんて思いもしなかった。 記憶喪失2日目の夜、弥生は俺の帰りを待っていたのか、ほんの少し会話をすると『出てくわー』と玄関に向かう。 その背中をただ見ることしか出来ない自分はとても惨めで、そしてただただ辛かった。

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