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scene.1 不思議な巡り合わせ

「…では改めまして。名前は『勝又結真(かつまたゆうま)』さん、で宜しいんですね?」 「…はい」 「当サロンをお選びになった理由をお聞かせ願えますか?」 「はい。えっと…ハローワークでこちらを紹介されまして、此処なら何とか仕事を続けられるかな…って…。俺、今まであまり仕事が続いた事が無くて、どの職場でも短い周期でしか働けなかったんです」 「それは何故?」 「…俺、人付き合いとかすごく苦手で…。この年齢なので、本当はきちんと続けられる仕事があればいいんですが、何処に行ってもどうにも上手くいかなくて」 「それは、人付き合いの面でですか?」 「それも理由の一つです。…ですが」 「ですが?」 「……。」  俺は言葉に詰まってしまった。それもその筈だ。このサロンに来る前、俺は実家で母親と歳の離れた弟の3人とで暮らしていた。母はシングルマザーで、俺は父親の顔を知らない。…いや、知らない訳ではないのだが…俺の記憶の中では、父親の後ろ姿とその父親の下に組み敷かれ、いつもあられもない声を上げていた母親の記憶しか…無い。  背中越しに見る父親はいつも恐ろしくて、その父親に抱かれていた母親の濡れた声を聞くのが怖くて…俺は自分の部屋の隅で耳を塞ぎながら、いつか自分もそうなってしまうのではないか…と、ずっと怯えていた。当時の父親にとって、俺の母親は自分の性欲を満たすだけの存在でしか無かったらしく、俺が学校から戻ってくると部屋はいつも真っ暗で、わずかに漏れる窓の明かりが映し出す父親の背中と、暗闇に響き渡る母親の声だけが延々と続いていた。  ある程度の時間が過ぎて、母親への性行為を済ませた父親は、そのまま家から出て行ってしまい、今度は俺が学校から帰る時間になるまで戻ってこない。  その頃の俺は、きっと父親は夜の仕事をしていたのだろうと思い込んでいたが、それが間違いだったと気づくのは、そんなに遅くもなかった。  ある日、珍しく父親が昼間の時間に居たので何があったのだろうと思っていたら、そこに小さな子供が座っていた。その子供の母親が病気で亡くなってしまったので、父親が引き取る事になったというのだ。…それだけならまだ良かった。父親から話を聞いていくと、その内容がどうもおかしい。その子供の母親は、自分が亡くなる前に父親に対して離婚を突き付けてきたという。…つまりその子供は、父親と亡くなった母親の間に生まれた実の子供で、俺と俺の母親との間には血縁関係が無い、という事だった。  その事実を紐解いていくと、俺の母親というのは、父親である筈の男の愛人にあたる存在で、俺はその愛人との間に生まれた子供だった…と言う訳だ。  そんな訳で、父親だと思っていた男に見事に裏切られた俺は、子供と共に家に戻って(?)きたその男の存在を認められるはずもなく、自分の中にあった『父親』という存在の記憶を忘れることにしたのだ。  以来、俺は家族(特に父親)との距離を置くようになり、それまで普通に通っていたはずの学校にも通えなくなり、ついには不登校になってしまった。  母親はそんな俺を必死になって心配していたが、この一件ですっかり人間不信となってしまった俺には、もう誰を信じていいのか分からなくなり、家族でさえ信用できなくなって、家庭内孤立のような状態にまで陥ることになった。そこからの負の連鎖は止まらなくなり、引きこもりから鬱状態、不眠症、自傷行為、自殺願望…ありとあらゆる精神的疾患を患ってきた。  そんなほぼ廃人状態だった俺が再び歩き出せるきっかけになったのは、その時に家にやってきた子供…現在の弟の存在だった。  弟は、血の繋がっていない俺とその母親を恨むことなく、差別する事もなく、自分の立場を悲観する事もなく、いつも純粋に真っ直ぐに成長してきた。  その弟もすっかり大人となり、俺のような廃人生活を送ることなく、ごく普通の青年として成長した彼が、晴れて結婚することになった。しかも結婚後はこの実家を継いでいくという。  もう既に父親は亡くなっており、実家には高齢となった母親と、未だにまともな社会復帰ができない俺の二人しか残っていないが、結婚した弟が嫁入りをする相手と共に実家に同居する事が決まった瞬間、俺は嫌でもこの実家を出なければならなくなってしまったのだ。…実家はあれど、その実家の自分の居場所を失ってしまう…そう考えた時、俺は意を決して家を出ることを決めた。自己判断でハローワークを訪れ、そして藁をも縋る気持ちでこのサロンへとやってきたのだ。 「…実は以前、此処と同じような仕事に従事していたことがあるんです。…もちろん続いてないので、資格は持っていないんですが…。それでも少しは経験があるので、もう一度挑戦みようかと。…後は、住み込みで働ける場所があれば、と思いまして」 「そうですか。…分かりました。では、採用という形で書類処理をさせて頂きますね。履歴書を頂いてもよろしいですか?」 「あ…はい。…こちらが履歴書です」 「はい。では失礼して、確認させて頂きますね」  そう言うと、芝崎は俺が渡した履歴書の封を切り、中から書類を出して確認し始めた。 「名前は勝又結真さんですよね。年齢が…40歳。それから…」 おもむろに履歴書を確認している芝崎だったが、ふとこんな事を俺に聞いてきた。 「勝又さん…もしかして、お生まれは静岡ですか?」 「…え?あ、はい。そうです。静岡とは言っても、場所的にはもう神奈川に近い土地ですね。なのでこちらの方が近いんです」 「そうですか。…偶然ですねぇ。私も生まれは静岡なんですよ」 「…そう、ですか…」 「それと…恐らく私の本家とあなたのご実家は、何処かで繋がっているかも知れませんね」 「…は?言ってる意味が良く分かりませんが…」 「勝又とは言ってもいろいろありますよねぇ…カツカンデンとかヒッカケマタとか。あ、ちなみに私の親戚はニンベンマタですよ」   いやちょっと待て。…さっきから俺の目の前に居るこの男は、何の事を言っているんだ?…俺としてはあまりにも自分の知識の中に思い当たることがありすぎて、逆に不安になっていく一方だった。…あ、まさかこいつ…ストーカー…とかじゃ、ない…よな…?  何とか社会復帰する為に此処まで勇気を振り絞ってきたと言うのに、これではまた昔の俺に逆戻りしそうだ。…どうしようか、やっぱり止めようか。渡した履歴書ともらった名刺を突き返して、このままこのサロンから出ていこうか…。そんなネガティブな考えが俺の頭を巡った途端、芝崎からは意外な答えが返された。 「私の本家姓が、あなたと同じ『勝俣』なんです。…ですが、私は両親が離婚しているものですから。なので私の名前は母方の旧姓なんですよ。…いやぁ、嬉しいなぁ…。こんな所で同じ故郷の人に出会えるなんて。…不思議な巡り合わせですね」 「は…はぁ…」 「一応言っておきますが、別に同郷のよしみだから勝又さんを採用するとかそういう理由ではありませんよ。私も経営者ですから、そういう私的な感情は一切ありません。あなたの仕事ぶりを数か月間かけてじっくりと観察させて頂いて、このまま続けてもらうか、それとも違う所を紹介するかの判断はきちんとさせて頂きますので。それでも宜しければ、このサロンで働いて頂きますから」 「…分かりました、ありがとうございます。よろしくお願い致します」 「こちらこそ、よろしくお願い致します」  そう言って芝崎は俺の前に腕を伸ばし、俺の手を掴んで握手を交わしたのだった。 そしてそのまま、こう言葉を繋いでくる。 「それから、住み込みを希望との事でしたので、こちらでの生活拠点になる住居についてですが…私の自宅の一部屋を提供する形となるのですが、よろしいですか?」 「…………は?…あの、それはどういう…?」 「そのままの意味ですよ」  そのままの意味ですよ、とさらりと言ってのけるのはいいが…こいつは一体何を考えているんだ?…今日、この瞬間に今まさに出会ったばかりの他人が、一つ屋根の下で暮らす…?まるで意味が分からない。大体、俺もこいつも相手がそれぞれどういう人物なのかと言う事自体、分かっていないのだ。所謂「シェアハウス」という形になるのだ、という事は理解できた。  だがやはり…相手を知らずに同じ家の中で生活する、というこの感覚は…人間関係に不安が残るこの俺の中では受け入れがたい。…いや、『怖い』のだ。はっきり言って。  そこで俺は、こんな質問を芝崎にぶつけてみることにした。 「あの…こちらの店舗の部屋を利用させて頂く事は可能なんでしょうか?」  そうなのだ。先ほどこの店舗の前に到着した時、この建物全体がどうやら1件のアパートのような仕組みになっているということが、外観から見て取れた。ハローワークでこのサロンを紹介された時に「住み込み可能」と書かれていたのを見て、俺は此処へ来ることを決めたのだ。ならばこのアパートの一部屋を借りれば済む事ではないか…と、そう思ったのだ。…だが、この質問に対する芝崎の返事はこれまた俺の度肝を抜いてきた。 「こちらは、主に年金受給者や生活保護者の為の集合住宅なんですよ。なので確かに家賃は安いですが、それぞれ6畳一間で風呂無し・トイレは共同使用なんです。ですから、勝又さんのような人間関係に不安を感じる事が多い方にはお勧め出来ませんよ。…それでもこのアパートに住みたいですか?」  …これはまずい。どういう訳なのか、すっかり見抜かれている…。芝崎の言葉があまりにも正論すぎて、俺はぐうの音も出ない。俺は、そんなに分かりやすい性格なんだろうか…。 「…あ…それは…確かに……。とは言え、やはり見ず知らずの他人の家に同居すると言うのは…」 「…あなたと私は、これから一緒に仕事していく仲間ですよ。それに、もう見ず知らずの他人と言う訳でもないですよね?…現にこうしてお話しさせて頂いているじゃありませんか。私がいくつか質問させて頂いている事に対して、あなたはこうして受け答えが出来るようになっている。…それだけでも、十分あなたの心に不安を与えている訳ではないと、私はそう思っているのですが…違いますか?」  いや、それは面接だからだろ!…という俺の心の声が届いたかどうかは知らないが、言われてみれば確かに…そうだ。本当に苦手な人間なら、俺は話をすることさえも難しい。…実際、あの男はそうだった。前妻が亡くなった後、愛人だった俺の母親と再婚して、改めて家族として共に生活するようにはなったものの、やはり俺にはどうしても拭い切れないものがあって、時々顔を合わせることはあっても、気軽に話せる存在にはならなかった。向こうもそれを知ってか知らずか、俺に対する態度にはどこか冷めた感じがあった。だがそれも今となっては真実は闇の中。…ただ言えるのは、俺にはひどく残酷に見えたあの光景も、彼らにとってはお互いの想いを確認するための手段の一つであり、身体を寄せ合う事で心の温もりを感じていたのかも知れない、という事だった。そう考えた時、俺の中で導き出された答えは…。 「…分かりました。よろしくお願いします」 と、いうことだった。 「では、移動しましょうか」 「え?…あの、店の方はいいんですか?」 「ああ、そうですよね。ですが今日は定休日なので、このまま自宅へ戻ります」 「ご自宅は、此処から近いんですか?」 「ええ。歩いて5分くらいの所です。この辺りは工業地帯ですから、夜は工場夜景がとても綺麗に見えますよ」 「へえ…そうなんですね…。最近は工場夜景を見る為だけのツアーとかもあるんですよね?」 「ええ、そうですね。…勝又さんは、そういう事にご興味がおありですか?」 「…あ、別に名前の方で呼んで頂いても俺は一向に構いませんが…言いづらくありません?」 「え…ああ、そうですね。では結真さんと」 「何なら呼び捨てでもいいですよ。芝崎さん…俺より年上ですよね?」 「私ですか?今年で43ですよ。全然見えないって言われますけど」  え、嘘、だろ…?…あの顔で…?43歳…?今度は俺の方が驚いてしまった。 どう考えても30代前半にしか見えないぞ!!??俺自身、結構童顔だと言われることはままあるが、芝崎の場合はそれ以上だ。しかも色素が薄いのか、その瞳もわずかにブラウンめいていて、パッと見ではハーフのような雰囲気さえ感じられる。そのせいだろうか、俺を見つめるその顔には、どこか彫刻のような冷たさが見えるのだ。しかしこうして話をしていると、人間関係に不安があるばずの俺が何故か安心してしまう不思議さも感じる。…この感覚は、今までの俺の中には芽生えたことがない。  …自分でも例えられるものが見つからないこの感覚は、一体何だ……?  そんなことを考えながら歩いていると、横にいる芝崎から声を掛けられた。 「お待たせしました。こちらが私の自宅ですよ」  そう教えられて俺が見上げた先には、近代的な外観のタワーマンション。 しかも、目の前にはかなり大きな川幅を持つ運河が流れている。リバーサイドの高級タワーマンションといったところか。所謂セレブ好みの綺麗なマンションのようだ。  しかしながら、自宅がこれほどの場所にあるのなら、あの店舗の古さは何なんだ?という疑問が残る。芝崎がそれほどの年収を稼げる人物だと言うのなら、あのボロアパートのような建物も、今時のヘアサロンです的なイメージの、外観がオシャレな建物とかに建て替えられそうなものなんだけど…。 「こちらが、このマンションのセキュリティーカードです。…このカードは自宅の玄関の鍵と兼用になってますので、紛失しないようにしてくださいね」  そう言った芝崎は、俺の手にセキュリティーカードを手渡してきた。 「私の自宅の部屋番号は1035号室です。入館の際には、必ずこの入口のセキュリティーチェックボックスを操作してくださいね。部屋番号を入力してチェックOKになると、玄関の鍵が開錠される仕組みになっています。退館するときも同じです。マンションから出る前にこのチェックボックスで番号を入力してOKになると、玄関の鍵が閉まる仕組みです」 「あ、なるほど…。これでセキュリティーが保障されるようになってるんですね」 「防犯対策やプライバシーの保護なんかもされますよ。このマンションは、不審者や違法訪問販売業者への対策がきちんとなされているんです。…常駐のガードマンや管理人の方もいらっしゃいますから、私たちのようなマンションの住人達が大きな不安を抱える事なく、安心して生活できるようになってるんです」 「確かに…そこまでしっかりとしたセキュリティ対策がなされている場所って、あまり無いですよね」 「…だから私も、自宅を購入する際に敢えて此処を選んだんですよ」 「…そうなんですか」  俺がそう答えると、芝崎は玄関のドアを開けて部屋の中へ案内してくれた。 だがしかし。…芝崎の最後の方の言葉に何やら意味深なものを感じたような気もするが、対する彼自身がさらっと流してしまったので、俺は特に気にしない事にした。  ――そしてこの日から、俺・勝又結真と、その俺の目の前に居るこの童顔過ぎる43歳・芝崎護との、何とも不思議な共同生活が始まったのだった―――。      

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