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scene.3 かくも平穏な日常

「おーい、居るかい?」 「はーい!」  その日、店舗の入口あたりから聞こえてきた声に気付いた俺は、すぐにバックヤードから移動して店内に降りてきた。 「…よう。おはよう、結真君」 「おはようございます、与那覇さん。…今日はどうされたんですか?」 「おう、あのな。…これ、良かったら貰ってくれや」 「…あ!日本酒じゃないですか。…もしかして、今年の新酒ですか?」 「おう。昨日、息子から俺の所に届いたんだけどよ。俺、今医者から飲酒止められてるんだわ。…せっかくの貰い物だけど、ただ捨てるのも勿体ねぇから、良かったら貰ってくれよ」 「ありがとうございます。遠慮なく頂きます」 「おう。今年もいい感じの酒になったらしいぞ?」 「へえ…楽しみですね」 「そういえば…今日は兄ちゃん居ねぇのかい?」 「芝崎なら、今日はセミナーがあるとかで午前中は出かけています。帰ってくるのは午後だと思いますけど、どうしますか?」 「いや、居ねぇなら居ねぇで良いんだ。…また後で出直してくるわ」 「そうですか。じゃあ、芝崎には報告しておきますので、後でお待ちしてますね」 「ああ。あんたも早く技術身に付けろよ。俺、待ってんだからな?」 「はい、ありがとうございます。精一杯頑張ります」 「じゃ、また後でな」  そう言って、与那覇さんは店から出て行った。 俺がこのサロンで働くようになってから、約1ヶ月半ほどの時間が経っていた。  新酒が出回り始めたこの季節は、もう冬の装いを見せ始めている。街が賑やかになるクリスマスを目前に控え、このサロンの周りの住宅や商店街も、クリスマスにちなんだイルミネーションのライトアップや音楽に溢れている。クリスマスを過ぎれば、今度は新年を迎える準備に慌ただしくなり、否が応でも年の瀬を感じる。  あれから俺は、店の定休日を利用しながら街歩きを続け、少しずつではあるけれどもこの町の事が分かるようになってきた。店舗裏の共同住宅の住人達にも俺の顔は知られるようになり、先ほどの与那覇さんのように直接俺に声を掛けてくれる人も増えてきた。  此処へ来たばかりの頃はあまり感じていなかったが、少し歩けば町の小学校や結構な規模の商店街なども存在するし、かつてはこのサロンの隣の敷地に大きな工業高校もあったようで、都会には珍しい無人駅のある土地柄の割に、人の流れ自体はあまり悪くないようだ。高校だった敷地は既に更地にされてしまっていて当時の面影は見えないが、その同じ土地に今度は看護師養成学校を建設する計画となっているようで、塀に囲われた僅かな隙間からそれらしき基礎工事を行っている様子を伺う事が出来る。芝崎は、この看護師養成学校が完成した時の事も考えて、これからもずっとこの小さなサロンを守っていくと言っていた。 「しかし工業高校ねぇ…どれだけの高校生たちがあいつ目的でこのサロンを利用してたのか、分かったモンじゃねぇなぁ…」  なにせ芝崎のあのルックスとあの性格だ。当時の高校生たちにとっては、男だらけの天下の中で唯一出会える天使以外の何物でもなかっただろう。血気盛んな若者たちが、此処で働くあいつを見ていてどんな想像をしたのかとか、どうにかしてあいつをナンパしようとした奴なんかも居たんじゃなかろうかと、俺の頭の中ではそんな事ばかりがグルグルと回っている。   「…結真君。結真君!」 「…!…あ、芝崎さん…お帰りなさい」 「どうしたんですか、ぼーっとして」 「あ、いや…何でもないです。セミナー、お疲れ様でした」 「その割には随分顔がニヤけてますけど?…結真君、一体どんな事を考えていたんですか?」 「え、いや…あの…その…」  まさか芝崎の事を考えていた、なんて本人を目の前にして言える訳がない。 なので俺は早速、話を逸らすつもりでさっきの与那覇さんとのやり取りを報告した。 「あ、そういえばさっき、与那覇さんがいらっしゃいましたよ。…後でサロンに来られるそうです。それから、その時に日本酒を頂きまして。今年の新酒だそうです」 「新酒?…あれですか?」  そう言って、芝崎は店舗の奥に置かれた一升瓶を指差した。 「結真君。…これ、泡盛ですよ」 「えっ?」  泡盛、と聞いて俺は咄嗟にその一升瓶を見返した。だが、その銘柄を再び確認した俺はその目を疑った。その日本酒の銘柄は『残波』。…確かに、沖縄で最も有名な泡盛の銘柄だった。 「与那覇さんのご実家は、酒屋ですからね…。結真君、これどうするつもりですか?」 「いや、どうすると言われても…頂いてしまったものを今更突き返す訳にはいきませんよね…。どうしましょう…?」 「…ですよね。後で頂きましょうか」 「えっ!?…いや芝崎さん、これ泡盛なんですよ!?大丈夫っすか!?」 「大丈夫そうですよ。ほらここ、アルコール度数25度になってますから。泡盛と言っても、今はだいぶ飲みやすくなってるんですねぇ」 「…あ…本当だ…。25度か…なら、チューハイみたいに薄めれば飲めそうな感じもしますね」 「結真君は、お酒はあまり得意ではない?」 「飲めない訳じゃないですけど、すすんで飲む感じではないですね。ビールかチューハイくらいかな?芝崎さんは…」  …と、聞こうとして、俺は以前みわ子さんから聞いた芝崎の酒癖の話を思い出した。 『護くん、酒の呑み方自体は悪くないんだけど、深くなるとね…』 「…!!!!」 「…結真君?」 「…そういえば芝崎さんって…酒豪…なんですよね?…じゃこの泡盛とかも…」 「ええ、飲めますね。度数の高いものでも普通に飲めますよ」 「…やっぱりそうなんだ…。」 「…意外でしたか?」 「いや、そういうレベルじゃないでしょ!どんだけ強いんすか!?」 「そうですねぇ…僕の場合、あまり残らないタイプなんですよね。…下世話な話で申し訳ないですけど、飲んでもすぐに抜けてしまうので」 「はあ…いわゆる『ザル』ってやつですか…。あれ?…じゃあ、前にみわ子さんが言ってた芝崎さんが記憶飛ばした時の話って…?」 「話自体は嘘じゃないですよ。…確かに僕は酒豪で、飲んでもあまり記憶が飛ぶタイプではないんですが…その時の事だけは本当に何も覚えていないんです。あの時の彼…名前は『殿崎』と言うんですが、その殿崎君とは以前一緒に仕事をしてまして。今の君と同じように、プライベートでも同じ部屋で暮らしていたんです。…これを言って君が信じてくれるかどうかは分かりませんが…その…」  いつもなら何事もきちんと話してくれる芝崎が、珍しく言いにくそうな態度を見せているので、俺はもしかしたら彼の触れてはいけない部分を強引に聞こうとしているのかも知れないと瞬間的に判断して、咄嗟に話を逸らそうとした。 「あ…すいません!俺仕事に…」  戻ります…と言いかけて、その場を離れようとした俺だったが、芝崎はそのまま覚悟を決めたように、俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。…ああ、これはきっと俺に話を聞いて欲しいという彼自身の意思表示なのだと、そんな彼の様子を目の当たりにして、俺には断る理由がないと即座に理解したので、そのまま芝崎の次の言葉を待つことにした。 「…殿崎君とは、恋人と言っても良いくらいの関係になってました。…僕は彼の事が好きだった。対する殿崎君も、仕事のパートナーとして、またそれ以上の相手としても僕の事を認めてくれていた。…僕は、自分が好きな相手であれば性別はあまり関係ないので、彼に対しても女性と同じように恋愛対象として接する事ができたんです」 「それって…芝崎さんがバイ…って事ですよね?」 「そうですね…。確かに僕は、男女関係なく恋愛は出来ると思います」 「…へぇ…本当に居るんだ、そういう人って。だからみわ子さんとも結婚してたんですね」 「ええ、そうですね。…結真君は、そういう性癖の持ち主は苦手ですか?」 「苦手って言うか…自分の周りにそういう人が居なかったから、あまり馴染みはないですよね…。けど、俺は別にそういう人が居ても全然構わないと思いますよ。人を好きになるのに男だとか女だとか、そんなの関係ないでしょ?だって好きになっちゃったんだから。…周りなんてどーでもいいじゃないですか」 「そう言ってもらえると、僕も安心します。…結真君は、本当に不思議な人ですねぇ」 「俺が不思議…?そうですか?」 「ええ、君は本当に不思議な人です。…僕はあまり人に馴染むタイプではありませんから、君のような人が側に居てくれるとすごく安心できるんです」  これは意外だった。まさかこの芝崎にもそんな心の闇があったとは…。 普段の芝崎を見ていると、彼は本当に社交的で誰にでも柔軟な姿勢で応対しているので、あまり人に馴染むタイプではないと聞いても俄かには信じがたい。  だが、こうして芝崎本人からこの話を聞いて、以前からずっと気になっていた、時折見せるあの彫刻のような冷たい瞳の意味が、少しだけ理解できたような気がした。…しかし、彼の中に秘められたものはそれだけではない。そう思ったのもまた事実だ。…芝崎の心の奥底には、俺が想像もできないような何かがあるのかも知れない。そう思った。   ◇ ◆ ◇ ――その日の夜。    俺と芝崎は、珍しく二人で自宅マンションに戻ることになった。いつもならば、店舗の営業時間の終了後に芝崎からの実技指導を受けた後、俺は先に戻ってテキストを使用して資格取得の為の学科の勉強をする。その間、芝崎は店舗売り上げの計算やその他諸々の雑用作業を行い、翌日の予約状況や備品の棚卸などの仕事を終えてから戻るという、すれ違いのような生活をしている。  だがこの日は芝崎が午前中に外出していた事もあり、売り上げの計算なども早めに済んだようで、俺の就業時間と芝崎の就業時間の調整ができたので戻れることになったようだ。  サロンから自宅マンションまでの帰り道、近所のあちらこちらでクリスマスのイルミネーションが飾られていたり、クリスマスソングが流れてきているのを聞くと、何だか気分も浮き上がってくるようだ。 「それにしてもすごいなぁ…。これだけイルミネーションが輝いてる町なんて、この辺りじゃあまり無いですよね」 「そうですねぇ…。この辺りは、僕達と同年代くらいの若いファミリー層が多いですし、どこもみな競うように飾ってますからね」 「俺の実家の方じゃこんなの絶対無いっすね…。ウチの周りって、先祖代々その土地で暮らしてます、っていう古い習慣に縛られたような家しかないからなぁ…」 「それにほぼ親戚しか居ないでしょう?…どこもそんな感じですよね?」 「まあ、そうっすね…。って…あ、そうか。芝崎さんも本家性が俺と同じだったんですよね?そういえば」 「…もう随分と昔の話ですよ。今は一人ですけど、みわ子さんの所には僕の母も同居してますから、恐らく向こうでは此処と同じように賑やかにやっているんじゃないでしょうかね?」 「へえ、そうなんですか?…え、あれ?じゃあこっちの店舗って元々は…?」 「今は僕がオーナーになっていますが、元は僕の祖父にあたる人が、あの場所で理髪店を始めたのが最初なんです。ですが祖父は既に亡くなっていますし、母は一度芝崎の家から出ていますから、このサロンの営業には直接関わっていないんです」 「そうなんだ…だからあまり聞かないんですね」 「とても明るくて優しい方ですよ。そのうち結真君にも紹介してあげますよ」    そんな他愛もないような会話で帰り道をやり過ごしながら二人でマンションの前まで歩いていくと、その入口付近で何やら人影らしきものを見つけた。 「…あれ…?誰かな…?」 「…何ですか?」 「あの人…」 「……!?…まさか…」  俺が見つけた人影に、それまで明るかった芝崎の表情が一変した。 「……芝崎さ…?」 「…結真君。…申し訳ありませんが、先にマンションに戻っていてください」 「…え、でももし不審者とかだったら…」 「…大丈夫、ですから…お願いします」 「…本当に?」 「…彼は、僕の知り合い…なんです…。…ですから…お願いします」  大丈夫だから、と俺に言い聞かせるように何度も確かめる芝崎の姿を見ていて、俺の心の中に一抹の不安がよぎる。この時の芝崎の表情は、俺がこれまでほとんど見たことのないものだった。いつもの柔らかい表情でもなく、みわ子さんとのやり取りで見せるあの可愛さでもなく…以前からずっと気になっていた、あの彫刻のような冷たい表情…。それが一番近いと思ったが、今回の場合はそれ以上だ。震える表情で視線の先の相手を見つめながら、しきりに自分の左手を気にしている仕草が伺える。 「…芝崎さん…本当に大丈夫なんですよね?…無理してません?」 「…はい」 「…分かりました。俺、先に戻ってますから…」  そう言って俺はその場に芝崎一人を残し、心の奥に拭えぬ不安を抱えたまま、マンションの中へと入っていった。 ◇ ◆ ◇ 「あの子が、みわ子の言ってた結真君とやらか。…お前は本当に分かりやすい人間だな」 「…何故今になって戻ってきたんですか」 「お前に…会いたかったからだよ、護」 「…君は自分勝手だ。僕の元から知らないうちに去っていったくせに…。君が居なくなった後、僕は精神的に追いつめられた。…けど、何とかみわ子さんに助けてもらって、やっと今の自分を取り戻せたのに、その時のショックが抜けてきた頃に戻ってくるなんて…。君は本当に自分勝手だ……殿崎君」 「匠…って呼んでくれないの?昔みたいにさ」 「…た…く…み…。…匠…!」 「おいおい。此処、公衆の面前だぞ?しかもお前の自宅マンションの」 「そんな事知るか。僕はあれからずっと君を待っていた。…分かってたんだろ?…あの時の僕が酒の勢いだけで君に抱かれた事も、それを知った僕が君を追い出してしまった事も!…なのに…僕の本心じゃなかったのに…どうして君はすぐに戻ってきてくれなかったんだ…!」 「護…泣くな」 「…泣いてるわけじゃない」 「泣いてるだろ、ほら。…こんなになって…」 「匠…好きだ…!」 「俺も好きだったよ、護。…けど、今はもう…お前を受け入れることは出来ない」 「何故?」 「俺はもう昔の俺じゃない。今度、結婚する事になった。だからお前とはもう会えなくなる」 「…結婚…?お前が?僕が居るのに?…あり得ない」 「いや、あり得るんだ。…お前は気付いてないかも知れないけど、今のお前の心の中に居るのは…恐らく俺じゃない」 「…僕の心はずっと匠のものだ。君以外は必要ない」 「…護、本当にそう思ってる?…さっきまで一緒に居た彼…結真君と言ったか。その時に俺を見たお前の顔は違ってた。…俺を見て怯えてた。そうだろ?」 「…あれは…違うんだ…。…あれは…、僕は…本当に…」 「違わないだろう。…今、こうして俺のそばに居るお前は震えてる。俺の事を好きだと言いながら、心の奥で俺が現れた事に怯えてる。それはもう、お前の中で俺の存在を認める事が出来なくなっているという、紛れもない証拠だ。…けどもう安心していい。俺はこの町を離れる。今後一切、お前と会う事も無くなる。…だからこうして最後の挨拶に来た」 「匠…」 「それにお前のこの左手…どうしてそんな事をする?」 「…これは…」 「どうせ、ひどい別れ方をした俺の事を必死に忘れようとしたんだろ?…けどそれこそが、お前の心が俺から離れていってるという何よりの証拠だ。…そんなもの、絶対にあいつに見せるんじゃないぞ?…いいな?」 「……。」 「護、今はまだ分からなくてもいい。だけどいつかは、自分の本当の気持ちに向き合わなくちゃならない時期がやって来る。…その時に、俺の存在がお前にとって良い思い出になるかならないか…それを決めるのもまた、お前自身だ。…例えそれがどんな結果になったとしても、俺はお前の事を信じるし、裏切らない。…俺は絶対幸せになってみせる。だからお前も、俺との関係に二度と惑わされずに幸せになれ。…いいな、護?」 ◇ ◆ ◇ 「…ただいま」 「お帰りなさい。…芝崎さん、さっきの人って…?」 「彼は…僕の昔の知り合いです。今度、結婚する事になったから挨拶に来た、と」 「…そうなんですか。良かったですね」 「ええ…そうですね…。結真君、申し訳ない。…今日は先に休ませてもらっていいですか?…どうやら一気に疲れが出てしまったようです」 「…そうですか。じゃ、後の片づけは俺がやっておきますから…お休みなさい」  そう言って、俺は芝崎を見送った。 家に戻ってきた芝崎の様子が明らかにおかしいのは分かった。…その理由が、俺がさっき会った人物に起因しているという事も。だが俺はその事には一切触れず、敢えて普段通りに接することで、芝崎の心の負担を少しでも軽減できるようにした。 ――芝崎の心の奥底に眠るもの…俺の想像を遙かに超えるそれはいったい何なんだろうか…?              

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