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scene.4 忍び寄る影、開かずの扉
――1週間後。
俺はサロンの2号店に居た。
あの時以来、芝崎の体調が優れない日々が続いており、俺の働いている1号店は臨時休業状態となってしまっているので、現在はみわ子さんがオーナーを務めている2号店に出向中だ。
「みわ子さん、この道具類は此処に置けばいいですか?」
「ええ、ありがとう。…あれからどうなの?護くんの様子は」
「相変わらずですね。…調子が良い時は起きて本を読んだりしてるみたいですけど、だいたいベッドで休んでる方が多いかなぁ…熱もあまり下がってないみたいだし」
「そうかぁ…いつからだっけ?」
「今日で一週間くらいかな。…一応病院には行ったらしいんですけど、身体の方には特に異常がある訳でもなくて、恐らく精神的なものだろうって」
「あー、そっちか…。分かった、何かあったらすぐにあたしに連絡してきて。すぐ飛んでいくから。護くんの心の壁を破るのはあたしの役目だからね」
「心の壁…??」
「護くんの場合はこんなの日常茶飯事よ。彼はああ見えてけっこうナイーブなの。いつも真面目すぎるから、気を遣いすぎて自分が疲れちゃうのよ」
確かに、みわ子さんの言う事にも一理ある。
芝崎のサロンでの仕事ぶりや俺に対する実技指導のやり方を見ていても、彼が全てにおいて真剣に取り組んでいるのが分かるし、仕事とプライベートの使い分けもきちんとしている。
だがそれ故に、俺は時々不安になることがある。芝崎のひとつひとつの行動の中に、昔の自分を照らし合わせてしまう事がある。…そんなに一人で抱え込まなくてもいいのに。
「みわ子さん。…変な事聞いてもいいですか?」
「うん?変な事って何?」
「みわ子さん。『殿崎』って人の事、知ってますか?」
「えーと…ああ、匠くんのことかな?…知ってるわよ。護くんの前のパートナーね。彼の名前は『殿崎匠(とのさきたくみ)』」
「へえ…そうなんだ。ちなみにその殿崎さんって、いくつくらいの人でした?」
「匠くん?護くんと同い年よ。結真君、覚えてる?あたしが前に言った護くんの酒の失敗の話。…その時の護くんの喧嘩相手っていうのが、彼なの」
「え!?」
「そういえば、あの時もこんな感じだった気がするわ…」
「あの時って…?いつ頃の話なんですか?」
「そうねぇ…10年くらい前かな。今のマンションを護くんが買って間もない頃だから」
「え?じゃあもしかして俺が今シェアハウスで暮らしてる所って…」
「恐らく同じ部屋だと思うわよ?二人で同居してたから。それでね。…その匠くんとの一件があった後に、やっぱり今回と同じように護くんがダウンしちゃってね…。あの頃はまだこの2号店も軌道に乗る前で、あたしもちょうどメディア仕事が立て込んでて、なかなかサロンに入れない日があったから大変だったのよ。なのに護くんはその時のショックの強さからすっかり引きこもっちゃって、仕事らしい仕事も出来なくなるし…。そうそう、睡眠薬を大量に飲んで救急車で運ばれたことなんかもあったのよ」
「うわ、睡眠薬とかリアル過ぎる…」
「だからもう本当に大変で。護くんがそんな状態であまりにも酷かったから、あたしも時間をかけて彼と話をしたのよ。…それでやっと今の状態にまで引き戻せたの」
「…大変だったんですね…。」
「そうねぇ…。精神状態が極限まで追い込まれてる時の相手というのは、こっちがどんなに頑張ってもなかなか心を開いてくれないし、話をしていても何だか噛み合わないしね。…ここ最近はあまり無かったから、何とか落ち着いてるなって思ってたけど、まさかね…」
「そういうのって、一度深みに嵌まるとなかなか抜け出せなくなりますからね。…俺は何とか立ち直れたけど…」
「え、結真君もそうだったの?」
「…あれ、俺言いませんでしたっけ?」
「あたしは…聞いてないわね。結真君もそうなの?」
「まあ、そうですね。…俺の場合は亡くなった父親が起因だったんですけど。…と言うか、俺の実家自体がけっこう複雑な家庭環境で。その父親との折り合いが上手くいかなくて、俺も一時期荒れてたんですよね、精神的な意味で。多分あの頃にありとあらゆる事は体験したんじゃないかなぁ…」
「それなのによくここまで立ち直れたわね。…きっかけは?」
「俺の場合は弟の存在ですね。いわゆる異母兄弟ってやつです。父親は同じなんですが、母親が違ってて。弟は、俺と10歳ほど離れているんです。俺の母と再婚した時に父親が連れてきた連れ子だったんですけど、そいつが俺や俺の母親との関係に腐ることなく素直に育ってくれたもんですから、俺もしっかりしなくちゃ…ってなって」
「そうかぁ。じゃあ良かったね。あ、でも何か心配な事とかがあったら、本当にあたしに相談しても良いのよ?」
「そうならない事が一番ですけど、どうしてもって時にはお願いしますね」
…と、わざとそれらしい事を言って、俺はその場を適当にやり過ごした。
だがこれで、芝崎の身に起きたこの一週間の突然の急変の理由も全て理解した。
恐らく、一週間前に俺達の住むマンションの前に姿を見せたあの男が、みわ子さんの言う『殿崎匠』という人物なのだろう。芝崎が俺を先にマンションに帰るように促したのは、その殿崎と自分との間にある過去の因縁を俺に知られたくなかったからだ。
あの後、芝崎はそのままマンションの前で二人だけで話をしていたのだろう。俺にはその詳細は分からない。だが、以前に芝崎が言っていた事や、先程聞いたみわ子さんの話が本当ならば、彼は殿崎という人物に対して並々ならぬ感情を持っていたという事は確かだ。
その殿崎が、10年の時を経て自分の元に突如として姿を見せた――。
またその殿崎自身にも、芝崎に対して何か思う事があって、かつて自分が住んでいたマンションに彼を訪ねてきたまでは良かったが、そこには既に現在の同居人である俺が居た。
この状況を、俺なりにそれぞれ逆の立場として捉えてみても、後に残るのはお互いの相手に対する気まずさか罪悪感か…そのどちらかしか考えられない。
――殿崎の立場なら、嫉妬・妬み・恨みのいずれか。
――芝崎の立場なら、悲哀・恐怖・罪悪感。
そこに精神的ストレスが加われば、もうどうする事も出来ない。しかも芝崎に至っては、自己犠牲の精神が半端なく強いと来ている。
それは時には、芝崎自身の長所でもあり短所にもなり得る。自分よりも他人を優先し良しとする彼の信念は認めるが、その分自分のことは全て二の次であり、しかも適度な距離を保ちながらも、自分のテリトリーの中に深く立ち入らせる事は望まない。
そういう男なのだ。芝崎護という人間は。
◇ ◆ ◇
「…ただいまー。芝崎さん…?」
玄関を開けてすぐ、俺はまず芝崎の寝室まで行き、その部屋に彼が居るかどうかの確認をした。だがそこには居なかった。
「あれ、おっかしいなー。芝崎さーん?」
『結真君ですか?…お帰りなさい』
その声が聞こえたのはリビングの方だ。…ああ何だ、起きてるのか。
俺はその足で芝崎の声が聞こえたリビングへと向かった。
「芝崎さん、入りますよ?」
『…どうぞ』
その声に導かれるように、俺がリビングのドアを開けると、芝崎の姿はソファーの前にあった。どうやら今日は体調が良いようだ。…が、しかし。
「結真君、遅かったですねぇ。先にやってますよ」
「…は?…ってあんたそれ、この前与那覇さんにもらった泡盛じゃ…!?」
「そうですよー。何となく飲みたかったので空けちゃいました」
「いや、『空けちゃいました』じゃねぇよ!…熱は!?身体は良いのか!?」
「…とりあえずこうして起きていられる状態にはなってますけど」
「…ああ、そうか。…ってそうじゃねぇ!!…ただでさえ高熱続きで体力を消耗してる所に、アルコール度数の高い泡盛を空ける馬鹿がどこに居るっ!!しかもロックで!!!!…あんた絶っっ対っっ悪酔いするぞ!!!!」
「まあまあ、そういう細かい事は気にせず。…一緒に呑みませんか?」
「あんたなぁ…この一週間、俺がどれだけ心配してたかと…!」
…と、芝崎がその右手に抱えている泡盛の一升瓶を取り上げようと近づいてみたところ。
「…うわ、酒臭ぇ…!芝崎さんあんた、酔っぱらってるだろ!?いつから呑んでた?」
「そうですねぇ…夕方くらいからですから…もう5時間くらい経ちますかねぇ」
「……んのっ……バカヤローーーーーーーーっ!!!!」
俺は、これまで出したことないくらいの大声で芝崎を叱責した…のだった。
「…すみません」
「もういいよ…。とりあえずそこまで元気になってくれたのなら。…で、どうするんです?明日から仕事に復帰できるんですか?」
「先生の方からは特に問題無しと言われてますから、仕事自体は出来るとは思うんですが…まだ少しだけ、心に不安が残るんです…。」
「みわ子さんから聞きました。…あの人、芝崎さんの前のパートナーだったんでしょ?殿崎さんでしたっけ?」
「…はい。今はもう君が居るというのに、僕はまだ彼に対して未練を残している…。忘れなければいけないとは思ってるんです。…頭ではそう分かっているのに、心が僕の思いに応えてくれない…彼が…殿崎のことが忘れられない…。彼の存在を、失いたくないんです。…僕は一体どうすれば…」
そう言って頭を抱える芝崎の姿は、完全に満身創痍だ。
みわ子さんも言っていたけど、確かにここまで酷いと、俺もあまり深くは踏み込めない。
だけど、この時の俺は思っていた。芝崎には、どうにかして立ち直って欲しいと。
だから俺は、話してみることにした。…自分がずっと考えることを避け、そして心の奥深くに隠し続けてきたものを。
「…あのね、芝崎さん。俺は別に、殿崎さんに対して嫉妬してるとかじゃないんですよ。芝崎さんがあの人のことを恋人のように思っていた事だって、それはそれで別に悪い事じゃない。前にも言ったじゃないですか、相手を好きになるのに性別なんて関係ないって。…俺が言える立場じゃないかも知れないけど、自分に嘘ついて、無理やり殿崎さんのことを忘れようなんて思わない方が良いですよ。…そんなこと思ったりするから自分が苦しいんですから」
「…結真君…。」
「…俺だってそうです。俺は自分の父親に対して、あまりいい感情は持ってなかった。…そりゃそうですよ。だって元々は他人で、妻子持ちのくせに俺の母を愛人にして、しかも性奴隷みたいに扱ってた。…そういう時、俺はいつも自分の部屋に閉じこもって、二人の営みの声に耳を塞いでました。それがほぼ毎日です。…どう考えたって頭おかしくなるでしょ?」
「…でも…」
「…そうなんですよ。俺にとっては迷惑でしかない行為も、彼らにとってはそれがお互いの存在を認め合う為の手段の一つだったんです。父も母も、その瞬間だけは男と女だった。…愛し合っていたんですよ、形はどうあれ。…じゃなかったら、再婚なんてしてませんから」
「再婚…?二人は再婚したんですか?」
「そうですよ。父親のかつての正妻だった人が病気で亡くなったんです。父が言うには、その方は自分が亡くなる前に全てをはっきりさせろと言って、父に離婚を突き付けたそうなんです。流石の父もその時は真剣に悩んだそうですが…父が答えを出すよりも先に奥様が亡くなってしまわれたので…父が子供の親権を引き受ける形で離婚届を提出して、その後に俺の母と再婚したんですよ」
「その子供というのは…?」
「現在の俺の弟ですよ。彼はもう結婚して実家を継いでいます」
「結真君は…?…君は、これからどうするんですか…?」
「芝崎さん、だから俺は此処に居るでしょ?…今の俺の居場所は、此処なんです。…芝崎さんの隣ですよ」
「結真君…。君はそんな家庭環境の中で、辛くなかったんですか?」
「辛かったですよ。…こういう事が平気でできるくらいにはね」
そう言って、俺は自分の着衣の袖をたくし上げた。…そこにあるのは、無数の傷痕。これもまた、俺の心の中にある隠したいもののうちのひとつだった。
「…これは…その…リストカット…の痕…ですか…?」
「そうです。…とても醜い傷痕でしょう?…でも、当時の俺は常にこういう事をしてないと自分を保つことが出来なかった。…怖かったんですよ、二人の行為が。…それに俺は男ですから、あの父親の行動を見ていて、自分も将来同じようになるのかと不安で仕方なかった。…その不安をどうにかして払拭したいと思ってやり始めたのが最初です。常に襲い来る不安を取り除くためにはどうしたらいいかといろいろ考えて、自分の腕を切って、その痛みに泣きながら眠れば、きっとそのまま楽になれるだろうって、そんな事ばかり考えてました。でも不思議ですよね。手を切ったからって別に死ねる訳でもないのに、そうすればこの辛い日々から解放されると、当時の俺は本気で思ってた。…今思うと、馬鹿ですよね」
「…いや、君は馬鹿じゃない。…どうしてこんな事したんですか…。君の両親が本気でお互いに愛し合って、恵まれて生まれてきた子供なのに…」
そう言いながら、芝崎は俺の傷だらけの腕に自分の頬をゆっくりと引き寄せて、そのまま小さくキスをする。それが彼の無意識的な行為であることは、見ていた俺もすぐに分かった。
…だから嬉しかった。…この人は、今後何があっても俺の全てを認めてくれる。良い俺も悪い俺も、そのどこまでも優しい心と自己犠牲の精神で、包み込むように受け入れてくれる。
――そう思った時、俺は自然と涙を流していた。…長く固まり続けていた氷が、水を与えられてゆっくりと融け出すかのように。
「……っ」
「結真君…。泣かないで……」
「……っ…。…芝崎さん…ごめんなさい…。…俺…」
芝崎のそんな言葉と行動がきっかけとなり、長く閉じ込められていた心を浄化された瞬間に溢れ出してしまった俺の涙は留まる事を知らず、俺はしばらくの間、芝崎に抱えられたその懐の中で、ただずっと泣き続けることしか出来なかった…。
「…そうだね…。僕が殿崎君との関係に悩んでいた間、君はもっとずっと…辛くて苦しかったんだよね…。ごめんね…。結真…」
芝崎は、自分の懐にうずくまって声を震わせ続ける俺に、彼は初めて敬称のない名前で俺を呼び、そしてただ黙って、ずっと頭を撫でてくれていた。そうされる事で、俺の心がゆっくりと落ち着いていくのが分かる。…何故だろう?…懐かしい感じがする。この安心感を、俺は何処かで覚えている気がする。…しかしそれが何なのか、今の俺には分からない。
「…結真君…。少しは、落ち着きましたか?」
「…はい…。ごめんなさい。…芝崎さんは…優しい人ですね。こんな俺でも、こうして受け入れてくれるんだ…。嬉しいです」
「…僕の方こそ…申し訳ありませんでした。君がこんなにも僕の事を心配してくれていたのに、僕はその思いに気付く事が出来なかった。…僕はずっと、君はとても心の強い人間だと思っていました。暗い過去に囚われていた自分を克服できるくらいに強い人間だと。…でも、そんな君にもこんな弱さがあった。…どうして今まで気付いてあげられなかったのか…」
「…誰だって、自分の弱い所は他人には見せたくありません。…だって男なんだから。…芝崎さんだってそうでしょ?」
「…確かに…そうですね。…分かりました。…僕も、もう一度やり直してみます。結真君、君のように。…大切な事に気付かせてくれて、ありがとう」
そう言った芝崎の顔がゆっくりと俺に近づき…泣きはらした俺の涙を拭うように、彼の優しいキスが降りてきたのだった。
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