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scene.5 ティアドロップ・クリスマス ― part.1―

「芝崎さん!…朝ですよ、起きてくださいよ!」  その日は、いつもならば俺よりも先に起きて待ってくれているはずのその姿がなかった。 俺が不思議に思って、芝崎の部屋の前でドアを叩いていると、中から聞こえてきたのはいつもよりテンションの低い彼の声だった。 『…あまり騒がないでください…頭に響きます…』 「…やっぱりか…。芝崎さん、開けますからね!」  俺は遠慮なくドアを開き、ベッドの上で頭を押さえてもぞもぞとしている芝崎の布団をはがして、その横に座り込んだ。 「…結真君、寒いです…。布団返してください」 「もう…だから言ったでしょ。悪酔いするって」 「…反省してます…」 「これに懲りて、二度と体調の悪い時に自棄酒は呑まない事ですね。…俺、今日はスクーリングとクリニックに行く予定がありますんで、帰りが遅くなりますけどいいですか?」 「…はい」 「それからクリスマスの予定なんですけど、営業時間終了後にみわ子さんと藤原が1号店の方に来てくれるそうです」 「…分かりました。調整しておきます…」 「じゃ、俺出かけますから。…くれぐれも、昨日みたいな事は絶っ対に!しないでくださいね…?」 「…何だかお母さんに怒られてるみたいです…」 「何バカなこと言ってんですか。そうさせたのはあんたでしょ。…あの酒は、しばらくお預けですからね?」 「うぅ…。面目ない…」  案の定、体調不良の状態のままで与那覇さんからの頂き物の泡盛を呑み空けた芝崎は、あの後綺麗に悪酔いをした挙句、見事にひっくり返った。ただ今回は記憶が飛ぶことが無かったので、自分が何をしたのか?という自覚はあったようだ。  そして俺もまた、今回の一件で心が潰されかけていた芝崎を何とか立ち直らせようと思って、自分がこれまでずっと隠し続けてきたものを彼に晒し、心の闇を取り払うような話をした事によって、俺自身も何だか救われたような気がした。  そんな事があって、今までのように芝崎に対する過度な遠慮をする必要もなくなり、あまり気負わず話せるようになったので、俺の気持ちにも少し余裕が出るようになった。  こうして誰かと一緒に居る当たり前の日々がこんなにも楽しいものだったなんて、今までの俺の中にはなかった事だ。  ――俺はきっと、今まで以上に強くなる事が出来る。…そう思った。 「おはようございます。行ってきます」 「はいはい。気をつけてね」  入口にある管理人室の守衛にそう声をかけて、俺はマンションの外へ出た。 するとそこには、いつか見かけたあの男の姿があった。 「…済まない。ちょっと聞いてもいいかな?」 「あれ?えーと…貴方は確か…この前、芝崎さんと話をしてた人…ですよね?」 「ああ、覚えていてくれたのか。…俺は、殿崎匠と言うんだ。…君が結真くん?」 「あ、はい。…勝又結真と言います。…もしかして、芝崎さんに用事があるんですか?…だったら、今日は家に居ますよ。…たぶん、二日酔いでつぶれてますけど」 「はは、二日酔いと来たか。如何にもあいつらしいな…。けど、今日は芝崎じゃなくて、君と話がしたくて来たんだよ。…時間、あるかい?」 「今からですか?…あー、すみません…。俺、これからスクーリングなんですよ。その後にクリニックの予定も入っているので…」 「クリニック…?」 「あ、別に重い病気があるとかって訳じゃないですよ?…いわゆる定期検診みたいなもので、半年に1回そういう日があるだけです。…って、ごめんなさい!貴方に関係ないことを…」 「…いや。…でも君は全然驚かないんだね?初対面の俺とでも、こうやって普通に会話が出来るんだ。…それならば、話もしやすいかな」 「…え?」 「ごめんごめん。また出直してくるよ」 「別に良いですよ。それなら、また夜の7時過ぎくらいになったら此処へ来てください」 「そうか、分かった。待ってるよ」 「それじゃ、また後で!」  突如俺の前に現れた殿崎の姿に最初は驚いたが、そこから話しかけてきた時の彼のその目を見て、彼は俺が思っているほど悪い人間ではないとすぐに判断できた。  そして思った。芝崎が10年の長きに渡り思い続けてきたというこの『殿崎匠』という名の男が、芝崎と別れてからの日々をどのように過ごし、生きてきたのかと言う事を。それから…彼だけが知っていて、俺の知らない芝崎の話を聞いてみたいと。 ◇ ◆ ◇ 「ちわーす。入りまーす」 「どうぞ。どうやら元気そうだね、その様子だと」 「おかげ様で。もうそろそろ瀬名さんともお別れかなぁ?…なんちゃって」 「それならそれで、私は全然構わないけどね?…君の相手はもう十分させてもらったから」 「えー…」 「…なんてね。座って、勝又くん。前回からの君の様子を聞かせてもらうよ。…ではまず、今はどんな生活をしてるのかな。まだ実家住まい?」 「いえ、実家は出ました。新しく仕事が決まったので、そのまま住み込みで」 「あ、実家じゃないんだ?…で、その仕事ってのは?」 「ヘアサロンですよ。横浜の方にある、個人店舗です」 「横浜のヘアサロン?…また随分と思い切った出方をしたもんだねぇ…」 「だってどうせ実家を出るなら、誰だって一度は都会に住んでみたいじゃないですか。俺んちみたいに、近所にほぼ親戚しか住んでないような田舎だったら、特に」 「都会に、ね…。はは、それは確かにそうだ。…でも、急に新しい土地に行って、周りは君の事を知らない人達ばかりの環境になったのに、不安にならなかったの?」 「最初は確かにそうでしたよ。…けど、サロンのオーナーさんとか、ご近所のおじさん達とかが皆優しい人ばかりなんで、すぐに慣れましたね」 「へえ、そうなんだ。じゃあ君は、周りの人たちに恵まれてたんだね」 「そうっすね。この前も近所のおじさんから泡盛をもらったんですけど…昨日かな、その泡盛をオーナーが呑んで悪酔いしちゃってひっくり返ったんですよ」 「ぶはは!泡盛と来たか。…それじゃ確かに悪酔いもするよねぇ」 「でしょー?…けどそれって、オーナーの自業自得なんですよ。つい最近まで高熱出して寝込んでたくせに、いきなり呑み出すんだもん。で、何でそんな事したー!って聞いたら、その理由が『何となく呑みたくなったから呑んだ』って言う。さすがの俺もバカヤロ―って言って怒りましたよ」 「え、怒ったの?勝又くんが?」 「うん、怒りました。だってそうでしょ。ただでさえ高熱で体力が消耗してる所に、アルコール度数の高い酒を呑んだら絶対悪酔いするに決まってるでしょ?要するに、身体の抵抗力が落ちてる状態なんだから」 「あー、それは確かに君の言う通りだね。私も酒は強い方だけど、あまりそういう呑み方はしないね」 「…まあ、本人にしてみればただの自棄酒だったみたいですけどね」 「え、自棄酒?…それはちょっと気になるなぁ、精神科医としては。…そのオーナーさんに何があったの?」 「さあ…そこまでは俺も分かりません。熱出してダウンしたことも、俺に黙って自棄酒を呑んだことも、オーナーが昔の知り合いに会ったことが直接のきっかけだったみたいですけど、個人のプライバシーに関わることだから俺も詳しくは聞いてませんし。…でもその人って、オーナーにとってはすごく大切な人だったみたいですよ」 「ああ、なるほど…。オーナーさんにとっての大切な人だから、君も敢えて聞かなかったんだ。…相手の気持ちを尊重してあげたんだね。…偉いね?」 「そうかなぁ?俺はそんな風には思ってないけど…。だって、相手に何か困ってる事があったり悩んでる事があったりしたら、それはやっぱり助けてあげたいじゃないですか。一緒に住んでるんだから」 「え、一緒に住んでるの?そのオーナーさんと?」 「うん、住んでますよ。ほら、最近流行りのシェアハウスってやつ。…あれですよ」 「シェアハウスかぁ…。まさかそう来るとは思わなかったなー…。でも、あれほど人を怖がってた君が、誰かと一緒に暮らせるようになるとはね…。私も驚いたよ」 「俺もですよ。…でもたぶん、俺はずっとこういう事をしたかったんだと思います。誰かの傍に居て、その人と一緒に笑ったり泣いたり怒ったり…当たり前の日々を当たり前に過ごす。…そんな事がやりたかったんだと思います。…だからそれが出来る今の俺は、本当に幸せなんだと思いますよ」 「そうか…。これはもう本当に私の出番はなくなってしまったかな?…寂しくなるねぇ」 「何言ってんですか。俺はまだ、瀬名さんのこと信頼してますからね?…俺に何かあったらすぐ瀬名さんに連絡がいきますよ?」 「うーむ…。私にしてみれば、そうならない事が一番なんだけど…。じゃあどうしようかな。…次回からは1年に1回にしようか?…それか、君が来られそうな時に来るようにした方が良いかなぁ。…不定期になるけど」 「俺は別にどっちでも構いませんよ?」 「だったらこうしよう。今度から、君の仕事が休みになる時期に連絡してきてくれれば、私の方で調整するよ」 「分かりました、そうします。ありがとうございました」 「これからも頑張ってね」 ◇ ◆ ◇ ――夕方。  全ての用事を終えて自宅マンションへと戻ってきた俺は、約束通りに入口で待ってくれていた殿崎と再び待ち合わせをして、近所にある一杯呑み屋へと向かった。 「殿崎さん。ご足労をかけてしまってすみませんでした」 「いや、いいよ。俺が勝手に君に声をかけただけだったしね」 「でも、本当に俺だけでいいんですか?芝崎さんも一緒の方が良かったんじゃ…」 「…良いんだ。…君だからこそ、話しておきたい事があるんだよ」 「…あの、それってどういう…?」 「まあ、まずは軽く乾杯しよう。…ビールでいいかい?」 「はい。頂きます」    そう言いながら、殿崎は慣れた様子で店員に注文して、手元に出されたビールとお通しを俺の前に置いてくれた。 「…どうぞ」 「ありがとうございます」 「…じゃ、始めようか」  乾杯…と小さく声をかけて俺の前でグラスを傾けた後、最初の一口を軽く呑んだ殿崎は、一呼吸を置いて俺の方に向き直った。 「じゃ、まずは自己紹介からかな。俺は殿崎匠。以前、芝崎の店で働いていた」 「芝崎さんから話は聞いてます。…あとみわ子さんからも」 「そうか。なら話は早いな」 「殿崎さんが働いてたのって、確か10年くらい前ですよね。じゃ、この店も知ってました?」 「ああ、よく呑みに来てたよ。此処は惣菜が旨いんだ。おふくろの味って感じでね」 「やっぱりそうですよね。…俺もたまに来るんですよ」 「結真くんだっけ。君は何処の生まれ?」 「俺ですか?静岡ですね。…って言っても東の端っこくらいの所なんで、むしろこっちの方が近いかな?…まあ田舎ですよ。近所にほぼ親戚ばっかり住んでるような所だし」 「はは、それは確かに。…そういえば、護も本家は静岡の方だったと聞いたことがあるよ」 「それは俺も聞きましたね。もしかしたら遠い親戚なのかも知れないけど」 「親戚?そうなのかい?」 「ええ。俺の家系と芝崎さんの本家姓が文字違いらしいんですよ。これは俺の地元ではけっこう有名な話なんですけど、俺は『勝又』なのでヒッカケマタの家系、芝崎さんの本家姓は『勝俣』らしいんでニンベンマタ…みたいな感じで。でも読み方はどちらも同じなんです。それぞれの先祖を辿ると、どうも同じ家系みたいなんですよね」 「へえ、それは面白いね。じゃあもしかしたら、君達二人は昔どこかで会ってたかも知れないって事なんだね?」 「うーん…確かにその可能性は無きにしも非ずって感じなんですけど…。実のところ、俺も芝崎さんもそういう記憶ってのはほとんど無いんですよね…。だからただの偶然なんじゃないかって、その時はそれで話は終わりましたけど」 「なるほどね…。いや、でも君達二人は何処か同じような匂いがするよ。…この前初めて君を見た時に、そんな感じがした。…だから個人的に会ってみたいと思ったんだ」 「そうなんですか?」 「俺も護とは結構長い付き合いがあったからね。…元々は、東京のサロンの従業員同士として出会ったのが最初だったけど、その頃から護は頭一つ抜きん出てる感じはあったよ。それに、彼は理容師と美容師の両方の資格を持ってたから、当時としてはそれも珍しかったしね。だからメディア露出も結構多かったんだよ。『カリスマ』ってはやし立てられてね」 「え!?」  まさか、と思った。確かに、日々仕事に真剣に向き合う芝崎の姿を見ていれば、彼自身がかなりの実力と技術力の持ち主であろう事は理解できる。それにあの顔だ。…実年齢より10歳以上は若く見えるあのルックスで理美容師としての技術力も高いとなれば、それは確かにメディアが放っておくはずがない。…あの芝崎にそんな過去があったとは。 「でも護はあまりそういうのは好きな方じゃなかったから、本当に大変だったと思うよ。自分が思うような仕事が出来ないっていつも言ってた。…東京のサロンを辞めてこっちに戻ることになったのと同時に、メディアからも離れたんだよ」 「へえ…そんな事があったんですね…。そういえば、殿崎さんは何故あの店舗で働こうと思ったんですか?」 「俺か?…護の為だよ。あの店舗を一人で切り盛りしていくんじゃ大変だろうと思ったから、あいつがサロンを辞めた時に俺も一緒に辞めて付いてきた。ただそれだけのことさ」 「なるほど。確かに一人じゃ大変そうですもんね。…俺もそれは何となく分かります」 「あとはそうだな…祖父を亡くしたばかりのあいつを放っておけなかったってのもある。護は確かに仕事は真面目なんだが、それ以外がな…。他人にはやたら気を遣うくせに、自分の事となるとてんで疎いんだ。まあ、危なっかしいとも言うかな」 「あ、やっぱりそうなんですね」 「ほう、君も分かるのか?」 「分かる…と言うか、この前初めて知りました。そういう人なんだって」  ただし…その原因を作ったのは貴方なんです、殿崎さん。…と、俺は心の奥で皮肉ってみたが、敢えてそれを表に出さずに表情を取り繕った。 「…さて。世間話はこのくらいにしておいて、そろそろ本題に入ろうか」  それまでにこやかな笑顔と共に話をしていた殿崎の顔が、この言葉と同時に急激に変わった。そして、真剣な表情で次の話を切り出してきた。 「結真くん。…実は、君にお願いがある。…これを、護に渡しては貰えないだろうか?」  そう言った殿崎がおもむろに出してきたのは、理美容師が仕事の際に常に使用しているカット用のシザ―だ。それも自身がずっと使い続けていたものなのだろう。とてもよく使い込まれているのが見た目でも分かる。だが、俺は思った。…これを芝崎に渡せという事は…。 「…殿崎さん。…もしかして、理容師を辞めるつもり…なんですか?」 「…ああ。もう理容師は辞める。…と言うか、続けられなくなった」 「…それは、貴方の結婚が決まったから…ですか?」 「護から聞いたのか。…そんなのは、あいつに対する建前だよ。実際はそうじゃない。…詳しい事は教えられないけど、ただ言えるのは…俺がこれ以上理容師を続けられなくなったっていうその事実だけだ」 「だからこのシザ―を?」 「ああ。それは、俺がまだ東京のサロンに居た時に護と二人で買ったものなんだよ。…俺に何かあったらこれを護に託すと、以前から約束していたものだ。だから君に…今現在、護と一緒に仕事をしているその君に、このシザ―を渡して欲しいんだよ。結真くん」 「…そんな…。俺、出来ません……」 「何もすぐに渡せと言っている訳じゃないんだ。…君自身が自分で判断して、今なら渡せると思った時に渡してくれればいいんだ」 「…だけど…それじゃまるで……」 「いいんだよ。護もこの話は知っている。…これが自分の手元に来た時は、俺が理容師を辞めると決めた時だと」 「…本当に…?…この事を決めた貴方は、後悔しないんですか?…殿崎さんも、ずっと誇りを持って今まで続けてきた仕事なんですよね?…それなのに、こんな形で辞めてしまって本当に後悔はしないんですか…!」  この時の俺は必死だった。…理由は分からなかったけど、何故か必死になっていた。…そんな俺を見た殿崎がどう思ったのかも分からなかったけど、それまでの堅い表情が緩んで再び笑顔になった彼から発せられたのは、こんな言葉だった。 「…いや参った。…君達二人はやっぱり似た者同士なんだな。…本当に同じような匂いがするよ。…前に護にも言われたよ、今の君と同じような事をね。…だったら尚更、これは君にしか頼めない事だよ。…結真くん。今度は君が、護を守ってやってくれ。…俺があいつにしてあげられなかった事を、これからの君に成し遂げて欲しい。…彼を…幸せにしてあげてくれ」  そう言った殿崎の表情を見た俺の頭の中で、不穏な何かがよぎった。 彼は本当にこのまま、芝崎の元から永遠に離れていってしまうのだろうか?…芝崎にとっては、命に代えられないほどの存在であるこの殿崎という男が、完全に自分の前から姿を消したと知った時、あの芝崎の精神状態がどこまで保つのか。  …そうなった時、俺は芝崎を受け止めることが出来るんだろうか?…殿崎を失ったショックで、彼の精神が壊れていってしまうのではないだろうか?…そんな不安が残ったのだった。    

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