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第5話 初めての外出

「遠乗りにでも、出掛けてみるか?」  そう言われて、リマーユは飛び上がる程、嬉しかった。ずっと、家の中に居たからでは無い。ジュリアードが誘ってくれたから、だった。結婚する前は、よく二人で遠乗りに出掛けたり芝居を観に行ったりしていた。なのに、結婚してから、それがぱったりと無くなってしまって、やはり、男の妻を貰って、肩身の狭い思いをさせているのでは無いかと思っていたからだ。ジュリアードは、余り世間体を気にするタイプでは無いと思っていたのに、やはり気になっていたのかと、気に病んでいたのだ。 「行きたい!」  即座に答えてしまう。 「今日は、身体が辛いだろう? 明日はどうだ?」  昨夜も、と言うよりは、今朝方近くまで身体を合わせていたから、確かに、馬に乗るのは、少し難しそうだった。明日なら、確かに回復しているだろう。 「うん、明日なら、大丈夫だと、思う」  知らず頬が染まってしまう。まだ、夜の事を匂わされるのには、慣れなかった。  ジュリアードの手が伸びて来て、乱暴にリマーユの髪を撫でる。ジュリアードは、いつもそんな風にリマーユに触れて来るのだが、それが、リマーユは、堪らなく好きだった。 「あ、でも、僕のクリスティアーヌは、連れて来てないや」  実家に置いて来た愛馬の名前を口にすると、意外そうにジュリアードは片眉を器用に上げてみせた。おかしな事を言う、とでも言うようなその表情の変化を見て、リマーユは嬉しくなる。ジュリアードは大抵の場合、余り表情が変わらないからだ。 「俺のギュスターヴが居る。あれは、お前一人増えたくらいで、走りが変わる程、ヤワじゃない」  ギュスターヴは、ジュリアードの愛馬だ。名馬、との誉れも高い、黒毛の大きな馬で、魔力も豊富に持っていると言われている。噂では第三の目を持つとも言われていて、年もジュリアードより三つ程下の老馬である筈なのに、未だに現役だ。確かに、リマーユを乗せても、良い走りをしてくれるだろう。  魔物と動物の違い、と言うのは体内に魔石を持っているか否か、とよく言われるが、実は詳細な事は分かっていないのが現状だ。研究もそこまで進んでいない。研究者が多く無いのだ。しかし、魔物には唯一確かな事がある。人を襲い、喰らうのだ。それが、例え最弱と呼ばれるシルバーウルフであったとしても。その点から見れば、馬は人を襲わないし喰らわないので、動物と言えた。 「ギュスターヴは、僕を乗せてくれるかな? 嫌がらない?」  ギュスターヴは、確かに名馬と誉れ高いが、同時にその気難しさも有名だった。何しろ馬房の使用人に世話をさせないのだ。そのせいで、ギュスターヴの世話だけは、貴族であるジュリアードがする、と言うおかしな事になっていた。 「お前なら、まあ、大丈夫だろう、ギュスターヴは、命令されるのが嫌いなだけで、別に我が儘放題、と言う訳じゃない」  今度は表情を変えず、けれども、髭の目立たない顎をなぞりながらジュリアードは言った。ジュリアードは、表情以外の動きは少なくは無い。きっと、それを知っているのは、そんなに多く無いだろうけど、と優越感が胸を満たす。リマーユは、唇を緩めた。 「そっか。でも、嬉しいな。何処まで行くの?」 「久し振りに、森の奥の泉にでも行ってみようかと思うんだが?」 「女神様の泉? 良いね! じゃあ、何か摘める物を用意してもらおう!」  一時期、リマーユは、森に入れなくなっていた。あの事件のせいだった。森に近付くと足が竦んで動けなくなっていたのだ。だが、ジュリアードが常に傍に居て、一緒に入る事を提案すると、何と入れるだけで無く、森の深い所まで行く事も可能になっていた。ジュリアードの存在は、リマーユにはとても大きかった。  森の深くは、意外な事に聖域が有り、その周囲だけは魔物も寄り付かない場所だった。その代表的な所が泉であり『女神の泉』と呼ばれる場所だった。今では、リマーユ一人でも、そこまでは馬を使えば行ける程になっていた。好んで行く事は無かったが。  リマーユが提案すると、ジュリアードは今度も表情を変えずに頷いた。 「そこら辺は、お前の好きにしろ」 「うん!」  突き放したような物言いだが、ジュリアードの本心は、きっと本当に好きにして良い、と思っているのだろう。頷きながら、しかし、リマーユは、カロリーヌと話さなければいけない事実に気鬱を感じていた。  台所に足を運ぶ、と言う事をして、開口一番叱られたリマーユは、おどおどと謝罪の言葉を綴ってまた怒られた。どうやら、使用人は居間か何かに呼び出して命令をしなければいけないらしい。そして、むやみに使用人に謝ってはいけないらしい。ブノワレヴィ家では、いつも自分の作ったサツマイモを持って台所に押し掛けていたし、お礼や謝罪を口にしていたから、考えてもみない事だった。台所を押し出されて居間まで連れて来られる。意外な事に、しっかりと握られた腕が、痛かった。見た目に反して、カロリーヌは、力が強い。 「今後は、どうぞ、ベルでお呼びくださいませ。さて、それで、遠乗り、でございますか?」 「う、うん。そ、その、何か摘める物を用意してもらえないかな、って思って……」  不安から、酷く喉が渇く。今直ぐに水を所望したかったが、カロリーヌの雰囲気から、リマーユは何も言えなかった。 「承知致しました。ご用意致します。何時までに整えればよろしいですか?」  ジュリアード程では無いが、カロリーヌも笑顔の少ない女性である。少なくとも、リマーユは、ここに嫁いで来てから、一度もその笑顔を見た事が無かった。カロリーヌは比較的整った容姿をしているから、余計に冷たい印象を与えた。 「朝の鐘が鳴る時間までに、出来たら、お願いします」 「奥様!」  頭を下げようとしたら、ぴしゃり、と呼ばれる。慌てて顔を上げると厳しい目をしたカロリーヌが睨むようにこちらを見ていた。 「あ、あの……」 「貴族の主人の妻が、滅多な事で使用人に頭を下げるなどしてはなりませんっ!」 「は、はい!」  鞭のような声にそう言われて、内容も反芻出来ないまま、リマーユは反射的に返事をしていた。 「よろしい。明日の朝の鐘までですね。承知致しました。では、私は、これから夕食の支度が御座いますので、失礼致します」  四角四面に礼をされて、思わず頭を下げそうになって、慌てて小さく頷くに留める。頬を汗が伝った。角を曲がってカロリーヌの姿が見えなくなるまで見送ってから、やっと、溜め息を吐き出す。 「あ、また奥様って呼ばれた……」  ぽつりと落ちた言葉は、誰にも聞かれる事は無かった。  女神の泉は、以前来た時と同様、美しく水を湛えていた。その水は、何故か虹色に輝いている。魔力を帯びているのだ、と以前にジュリアードに教えてもらったが、それで、何故虹色に輝くのか、その原理はリマーユにはさっぱり分からなかった。だが、一つだけ言える事は、泉は、今日も、変わらずとても美しいと言う事だった。 「綺麗だね〜。泉に足を付けても良い?」 「好きにしろ。確か、タオルも入っていた筈だ」  ギュスターヴの背中から大きなバスケットを下ろしながら、ジュリアードは頷いた。リマーユは、ぽいぽい、と靴を脱ぐと、靴下も適当に脱ぎ去って、ズボンを捲り上げる。一瞬、手が止まった。くるぶしに、噛み痕が残っていたからだ。勿論、ジュリアードに付けられた物だ。痛くは無かったが、恥ずかしかった。しかし、泉の水の誘惑に負けて、手早くズボンを捲り上げると、リマーユは足を浸した。 「うわあ、気持ち良い〜」  ひんやりとした泉の水は、リマーユの足を柔らかく包んだ。隣で、ジュリアードがギュスターヴに水を遣っているのを何とはなしに見ながら、ぱしゃぱしゃと足先で水をかく。ギュスターヴが一頻り水を飲み終わると、ジュリアードは驚いた事にその轡を外し、自由にさせていた。た、た、た、と走り去って行く馬を見ながら、リマーユは疑問を口にする。 「ギュスターヴは、自由にして良いの?」 「頭が良いからな。呼べば戻って来る。それに、この森の魔物程度なら、適当に遣り過ごせる程、強い」 「そうなんだ……戦馬だものね。でも、僕より強いんだ……」 「まあな。大抵の馬は、お前よりは強いかもしれないな」  さらっと、酷い事を言われて、リマーユは瞠目した。そして直ぐに口を尖らせる。 「そこは否定してよ……」 「事実だ」  言いながら、ジュリアードはリマーユに倣って靴と靴下を脱ぎズボンを捲り上げ、リマーユの隣に座った。逞しい足が入った事で、ぱしゃ、と水が跳ねてリマーユの服が少し濡れた。地味に冷たかった。

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