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「おはよーございまーす!」  自由(みゆ)は事務所のドアを開け大きな声で中へ挨拶した。担当マネージャーの(まき)が1番最初に顔を覗かせる。 「あれ、どうしたの、自由(みゆ)」 「へ?」 「なんだか吹っ切れた顔してる」 「……うん。俺、頑張ります」  そう言って笑った自由からは一切の曇りが消えていた。 「はい、シュピーレンムジークです。……はい、いつもお世話になっております……エッ!widersprechen(ヴィーダーシュプレシェン)ですかっ?! ハイ!! お待ちください!! 牧さん、牧さん!! 外線1番です!!」  自由は隣に座っているスタッフにうるさいと窘められながらそれでも緩みに緩んだ口元は正すことは出来なかった。  机の下で小さくガッツポーズを作り「ヨシ!」と微かに声を出す。 「ダメっ、俺っ、トイレ!」 「へーちゃんトイレ行き過ぎ〜」  CDストアの控え室で配布用ミニポスターにそれぞれが流れ作業でサインを書く中、ベースのコーヘイは気が付いたらトイレに走っていた。 「オムツいるな、あいつ」 「ホントだよ」  他のメンバーも内心緊張していたものの、コーヘイのあからさまな緊張を隠れ蓑にバレないようぎこちない嘲笑を浮かべる。  今日は先日発売したマキシシングルの発売イベント一発目だ。都内のCDストアで歌って、そのあとは握手会。握手会をするのは初めてではなかったが、こんなに整理券が出たのはバンドにとっては異例のことで4人のテンションは自然と上がってく。  イベントが始まると初めて歓声と言うものを浴びた。バンドにとってはカルチャーショック並みの出来事だ。  会場はほぼ若い女性で埋まっていて、参加券は先着100枚配られ、80名余りほど集まってくれたとスタッフから聞かされていた。  人数で聞けば大した数ではない気がしたが、いざ目の前にするとものすごく大勢に思えるほど彼らにとっては久しぶりの目に見える客だった。  イベント用のフロアは狭くて、何をするわけでもないのにすでに熱気がこもり、やたらと自由は暑く感じていた。  自由は人前で、お客さんの前で歌うこと自体が久しぶりで、何とか笑顔を保とうと努力するのだが、あまりの緊張に目が回りそうになっていて、スタンドマイクを持つ手が震えている気がした。  インディーズの時はワンマンライヴの経験がなかったので、今、自分たちだけを見に来た大勢の人間というものがとにかくプレッシャーだった。  さらに事務所側が売り出しているのは、容姿的にも明らかにボーカルの自由であることはバンドメンバー全員が理解していたので、今日来た客のほとんどは明らかに自由目当てだ。その点、三人より自由のプレッシャーはかなり高かった。    自由以外の三人が音合わせに少し楽器を鳴らしているのが聴こえているものの、自由にはやけにそれが遠い音に感じた。  目の前の客たちの期待が、波のように肌に伝わって、失敗してはいけない、上手くやらなきゃと、自由の頭はそればかりが螺旋になって回り続けた。  そんな中、ふと、今朝の出来事を思い出した。  なぜだかわからないが、ふっと出てきたのだ。  明るいダイニングテーブルの正面にいつもなら新聞を読んでいるはずの葉山が、マグカップを手の中に収めた姿でこちらを頼もしそうに眺めていた。 「──今晩、何が食べたい?」  そんな、新婚のお嫁さんみたいな質問を葉山に笑顔でされた。  今夜は暇か? でも、今夜は早く終わるのか? でもなく、葉山の元に自由が帰ることが当然のように自然に葉山は聞いたのだ。  自由は行儀が悪いと思いながらもフォークをしばらく咥えたまま固まり、唇からそれを離して「ハンバーグ」と子供のようなリクエストをした。  葉山はそれを馬鹿にするわけでも、からかうわけでもなく「わかった」と、微笑んで答えた。  あの時の穏やかな顔で微笑む葉山が、自由にはとても大切な相手に思えた。  決して他人に大きな声で言えるような出会いではなかったけれど──  葉山は自由をこの短い間に、何度も何度も支えてくれたのだ──。  葉山がいなければ今、こんな風に戦おうと思えたかもわからない──。  一瞬全ての雑音が消えた──。  それは客が固唾を飲んだ瞬間だったのかもしれないし、自由の気のせいだったのかもしれないが、自由の胸の中が一瞬凪いでスネアのように鳴っていたうるさかった心臓もすでにおとなしく感じた。  ドラムがワン、ツーとスティックを鳴らし、リズムを刻む。  すうっと胸に空気を取り込んで自由は声を出す。  不思議だ──  もう全然苦しくない──  皆がキラキラした目で自分の歌を聴いているのがハッキリ見える。  自分を見てくれている、自分の声を──自分たちの歌を、音楽だけを今は聴いてくれている──。  今、自分たちは彼女たちを唯一、確実に独占しているのだ──。 ──幸せだ……。  自由は悲しくもないのに胸が熱くなって自分は泣いてしまうのだろうかと頭の片隅で思ったけれど、自分から出たのは最高にして最大の  笑顔だった──。 ──今日、たくさんのありがとうを言った。 ──たくさんの人にありがとうと、心から感謝した。  今晩家に帰ったら、リクエストしていたハンバーグを腹一杯に賞味して、彼にもありがとうと伝えよう──。

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