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44 陽炎ーかげろうー
梅雨が明けてからあっという間に夏が来た。
夏季休暇なんて学生にとってはそんなにいいものでも無い。
明日から夏休みですなんて言われても
始まるのは夏期講習。
でも、俺は萌志に会えるからいい。
萌志の態度がどこかよそよそしくても
スキンシップは変わらず続いている。
まだ手は離れていない。
でもどこか必死に萌志の手を掴んでいる俺がいる。
離れていかないって言われたのに、萌志のことを疑っている。
不安が曇天みたいに心を纏わりついて。
でも、まだ今日がある。
今日も放課後いつもみたいに落ち合ってそれから、それから——。
道路を立ち上る陽炎。
雌を求める蝉の声がうるさい。
嫌な記憶がより鮮明になる季節。
汗ばんだ手。
うだるような熱。
苦しげな喘ぎ声。
口を塞がれて助けを求める叫びおろか呼吸すら許されなかった。
暑い。痛い。苦しい。
苦しい苦しい苦しい。
「…………暁?」
突如聞こえた萌志の声にはっと我に返った。
無意識に握りしめた手が震えている。
いつもの場所で萌志を待っていたのだけど、呆けているうちにフラッシュバックが起こっていたらしい。
ぼんやりと萌志を見つめる。
バクバクと音を立てる心臓。
冷たい汗が額を流れ落ちた。
気持ちが悪い。
犬みたいに短く浅い呼吸を繰り返す。
「……顔色悪いから保健室行こう。」
心配そうな声と共に萌志が俺の前にしゃがむ。
…………嫌だ。
今は眠りたくない。
横になったら、目を瞑ったら始まってしまう。
もう見たくないのに。
俺は壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がる。
触れた壁がひんやりして気持ちがいい。
額を壁につける。
でもじっとしていたくはない。
どこかに行かないと。
氷水に制服のまま飛び込みたい。
(あつ、い……。)
ぱたぱたと頬を伝って汗が落ちていく。
歩きだそうとしてよろついた俺を萌志が支えようとした。
でも俺はその手を思い切り払ってしまった。
「……っ」
彼の目が瞠られた。
ごめん。
口を動かす。
でもその声は届かないのはわかってた。
霞む目で萌志を見たけどうまく焦点が合わない。
こんな醜態、これ以上見せられない。
震える手でスマホを操作する。
『大丈夫だからほっといて』
そう打とうとした。
でも汗で滑った画面が傾く。
キラリとした光が目を貫いた。
太陽を反射しながら、落ちていく。
スローモーションのようだった。
ぼんやりとどこか他人事のように落下するスマホを見つめていた。
(……あ、落ちる。)
そう思った時に、世界は暗転した。
*
カシャンと音がして暁のスマホが床に落ちた。
汗が黒髪を伝って宙を舞う。
虚ろな暁の眼がゆっくり見えなくなるのが非現実的なようでただ見つめていた。
「……え?」
細い体が電池が切れたおもちゃみたいに崩れ落ちていく。
いつもより青白さを増した肌が死人のようだった。
咄嗟に手を伸ばして抱き留める。
軽い。
力の入ってない細い腕がだらんと床に垂れた。
本能的に『やばい』と感じた。
ここに来た時、眼を見開いたまま止まっていた暁。
その瞳の空虚にぞっとした。
彼が抱えているものは俺が思っているものよりもっと暗くて重いものなんじゃないか。
滝のような汗でじっとり濡れた体躯。
浅い呼吸が薄く開かれた口から繰り返される。
名前を呼びながら、頬を軽くたたく。
反応がない。
熱中症だと判断した。
大丈夫。落ち着いて応急処置をして保健室に運ぼう。
マットの上に暁をそっと横たえる。
風通しを良くしようと屋上の扉をあけ放った。
むわっとした熱気を孕んだ風が踊り場に舞い込む。
それでも無風よりマシ。
体の熱を外に放出させて、水分を取らせないと……。
固く瞼を閉じたまま横たわる暁を見下ろす。
躊躇している隙は無かった。
「ごめん。」
白いシャツのボタンに手をかける。
手早く取り払って素肌を外気にさらす。
見ていられないほど細かった。
肋骨が浮いて、呼吸のたびにその形が浮かび上がる。
馬鹿。
こんなになって馬鹿じゃないの。
自分用に買っていたペットボトルをカバンから3本取り出した。
2本、暁の両脇の首に宛がう。
1本残った水を開けて、頭を支えて飲ませようとしても口の端から流れ落ちてしまう。
くたりとしたまま暁は何の反応も見せなくて焦りが募る。
くそ、起きたら説教だからな。
自分ごと暁に水をかける。
顔についた水を振り払うように首を振る。
ペットボトルの中に少し残った中身を口に含んだ。
若干冷えた首に腕を差し入れて、頭を持ち上げる。
スポーツドリンクの容器が倒れた。
青白い肌をそっと撫でる。
陰になった彼の額に俺の髪から伝った水滴が落ちていく。
「……ごめんね、暁。」
軽く息をついて。
薄く開いたその口に自分の唇を押し付けた。
早く入るように、舌でその薄い唇をこじ開ける。
口に含んでいた水を無理やり流し込んだ。
こんなことしたなんて絶対に言えない。
ごめん。ごめん、暁。
抱いた肩の手に少し力が入ってしまう。
コクリ、と小さく嚥下した喉の音にホッとした。
そっと唇を離して、濡れた口元を指の腹で拭ってやる。
もうちょっと頑張ってな。
もっと涼しいところにすぐに連れて行ってやるから。
少しだけ落ち着いた呼吸を取り戻した暁の額を撫でて、汗でへばりついた髪を払う。
脱がせたシャツを肩に羽織らせて、彼の体をおぶった。
自分の荷物も置いて、
びしゃびしゃにした踊り場も無視して。
俺は一目散に階段を駆け下りた。
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