46 / 138

46 刹那ーせつなー

ふっと意識が戻った。 自分がどこにいるのかわからない。 そのことに気づいた瞬間、慌てて身を起こす。 ずきりと傷んだ額に手をやる。 (……保健室?) 独特の薬品のにおいが鼻をつく。 俺はベッドの上にいた。 なんで? こめかみを揉みながら、混乱する頭を整理する。 確かいつも通り、屋上の扉の前にいたはず。 夏バテのせいで食欲がなくて、睡眠不足がそれに上乗せされて… フラッシュバックで気持ち悪くなって 萌志が来て、それで―――……。 ……それでどうなった?萌志は? まだぼんやりする頭をフル回転させながら辺りを見回す。 保健室は静かにひぐらしの声が響いているだけで、いるのは俺だけ。 ふと、ベッドの傍らに置かれた椅子に視線を落とす。 1本のスポーツドリンク。 結露が青いプラスチックに水たまりを作っていた。 それのせいで文字が滲んだ一枚のメモ用紙。 『暁へ   それ飲んでじっとしてろよ。  御波』 萌志の文字。あんまり目にすることがないから新鮮だ。 ちょっと斜めになったクセ字が彼らしい。 そこで自分の喉がひどく乾いていることに気づく。 スポドリを手に取って、一気に飲む。 そこで手が止まった。 ……あれ。 冷たい液体が喉を通る感触にデジャヴを感じる。 ペットボトル飲料なんてあまり買わないのに。 変に記憶が新しいような… ふに、と自分の唇を触る。 ……変なの。 「!」 もう一口飲もうとして手が震えてしまった。 口の端からこぼれた中身が胸元を濡らしてしまう。 (……ん?) はた、と気づく。 着ている服が変わっている。 俺が着ているのは体操服…しかも萌志の。 胸元に『御波』と刺繍で名前が入っている。 なんで?俺なんで萌志の体操服なんか…。 水分を取ったことでだんだん意識がはっきりしてくる。 おでこと首筋には冷えピタ。 もうぬるくなったそれをはがす。 あ。倒れたのか、俺。 世界がいきなり暗転したのを思い出す。 滝ような汗がぼたぼた流れて。 ふらついたあとに吸い込まれるように意識がなくなったこと。 じゃあここまで運んできたのは萌志? え、服を着替えさせたのは? ぶわっと身体が熱くなる。 「……っ」 萌志の服を着ている時点で俺を着替えさせたのは萌志だ。 あいつに体を見られたのがこんなに恥ずかしい。 頭を抱えて羞恥に悶える。 素肌をあいつの手が滑ったと思うと、もう消えてしまいたい。 まだその記憶がないのがせめてもの救い……なのか? じっとしてろってメモには書いてあったけど、つまり萌志が戻ってくるってことだろ。 とてもじゃないけど目を合わせられる自信がない。 悪いけどこのまま待っているほど俺のメンタルは強くない。 ベッドから抜け出して立ち上がる。 足の裏に伝わる冷たい床の感触に愕然とした。 おいおい。靴下も履いてないのかよ! え、俺の荷物は?あれ、スマホも無ぇ。シャツは?! その場であたふたしていると、保健室の扉が開く。 身構えてそちらを見た。 そしてよたよた入ってきたのは 「………は?なんで立ち上がってんの?じっとしてろって言ったじゃん。」 固まっている俺を見て眉根を寄せた萌志。 その手には、俺と自身のカバン。 それと、中身が少ないペットボトルに俺のスマホ。 萌志は備え付けられたソファに荷物を投げるように置いた。 あ。これは怒ってるぞ。 1回怒らせたことあるからな。知ってる。 ずんずん大股で近づいてくる萌志に思わず後ずさる。 うわ。終わった。 此方に萌志の腕が伸びる。 思わずさっと顔をそむけてしまった。 二の腕を掴まれる感触。 (……え。) そう思った次の瞬間には萌志の腕の中に収まっていた。 ふわりと優しい匂いに包まれる。 両腕が肩と腰に回され、体が密着する。 こわばったその腕にさらに力が籠められた。 突然のことにされるがまま、硬直する俺。 きつく抱きしめられて息が苦しいくせに。 久しぶりに萌志から俺に触れた。 そのことが嬉しくて思わず視界が揺らめく。 慌てて目に力を入れて耐える。 「馬鹿じゃないの。」 萌志が俺を抱きしめたまま、俺の耳元でしゃべり始める。 トーンの低くなった声がダイレクトに響いて、腰がぞわりとした。 思わず身じろぎするけど離してもらえない。 「…っ?!」 しかもするりと体操服の中に萌志の手が入ってきた。 飛び上がって思わず萌志のシャツを握りしめる。 本人はそんなことお構いなしといった風に俺の背中をまさぐる。 顔が爆発したように熱くなる。 なんかぼーっとしてきた。 背骨のくぼみを指がなぞって上がってくる。 身体が勝手にはねて、それがまた恥ずかしくてシャツを掴む手に力がこもる。 あれ、なんで俺もっと全力で抵抗しないの。 つき飛ばせるだろ。何でされるがままになってんの。 恥ずかしいくせに。こんなこと、萌志にされて、俺、 「こんなに痩せて、しかも熱中症で倒れて…」 ねっちゅうしょう…? 分かんない。 フワフワしてきた足元。 萌志が俺の肋骨をするりと撫でた。 くすぐったさに肌が粟立つ。 身を捩った後、ぐったり萌志にもたれかかってしまう。 カヒュッと喉が鳴った。 「あ……っ、ごめん、俺。」 それにハッとしたように萌志が体を離す。 急にぬくもりが消えて寂しくなる。 捲れた体操服の裾をいそいそと直した。 俺にとっては少しだけデカい。 顔が熱い。 手の甲で口元を拭う。 そんな俺を見下ろしていた萌志が静かに口を開いた。 「怖かった。いきなり目の前で倒れるから。」 見上げると、泣きそうに歪められた顔。 何でそんな顔。 俺が……させてるのか。 『ごめん。萌志、そんな顔すんな。』 口を必死に動かす。 伝わるか。 お前は悪くないって。 助けてくれてありがとうって。 それをじっと見ていた萌志が動く。 頬に手が添えられた。 目を瞠る。 萌志の親指の腹が唇に触れる。 端から端に弧を描くように指がスライドされる。 (……なんだこれ。) ゆっくり動くその感触に意識が集中する。 萌志から目が離せない。 喉が鳴る。 (あ、目が合った…) でも萌志はすぐ目を逸らしてしまう。 何とも言えない複雑な感情が胸で揺蕩う。 俺の唇から手を離した萌志が大きくため息をつきながら俯いた。 「………とりあえずよかった。……目、覚めて。」 それから顔を上げると、俺の額にそっと手を当てて考えるような表情をする。 萌志が触れた部分がいちいち熱くなる。 もうやだ。 全身が萌志を好きだって言ってるみたいで恥ずかしい。 ぼんやり突っ立ってる俺の背中を萌志が促すように押して歩いていく。 ソファから2つのカバンを持ち上げた。 それからいつも通り優しい表情で俺を振り返る。 さっきの時間なんかなかったみたいに、いつも通り。 「それじゃ、いこっか。」 萌志の言葉に首をかしげる。 いこっか……? ん?どこに??

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!