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萌志と足を踏み入れたのは、弓道場だった。 床板がキシ…と音を立てる。 月光のみでも十分明るいそこはどこか幻想的で美しかった。 俺たち2人。 誰もいない。 さっきとは打って変わってすごく静かだ。 やっぱりこっちのほうが俺は落ち着く。 大人数で騒ぐのは俺にはまだ面白さが分からない。 きっと彼らをただの「人」としか認識できていないからだろう。 ただ、そこにいるだけの人。 友だちでも何でもない。 こんな淡白な考え方しかできないのは、トラウマとかそんなこと以前に 俺には何かが欠落しているからなのだろうか。 人と距離を取りすぎて、大人数と楽しさを共有するということがひどく難しい。 そんなことを運動場でぼんやりと考えていた。 もしも萌志が俺と同じクラスじゃなくて、委員長じゃなくて、今と何もかも条件が違ったら。 そう考えると、広い宇宙にぽいっと放り出されたような心細さに襲われた。 小さく身震いしたら、寒がっているのかと思われてしまったけど。 萌志に精神的に依存し過ぎているのだろう。 そういう自覚はある。 でも萌志を俺のものだけにしたいとは思わないし。 むしろ俺なんかに時間を使わせていいのか。 悶々と考え始めたら、ループにはまってしまう。 そしてまた、今この瞬間も萌志に気を遣わせたらしい。 「つかれた?」 俺から眼鏡を取り去って、萌志は小さく微笑む。 少しだけ、という意味を込めて曖昧に頷いた。 2人きりになれるのは嬉しいのだけど、こうも毎回ドキドキしていたら俺の心臓が持たないんじゃないか。 (あ。緊張してきた……。) 昼過ぎの萌志の指の感触が思い出される。 くそ。 意識しないようにしていたのに。 暗くてよかった。 明るかったら、きっとこの赤い顔を萌志に気づかれてしまう。 飴色になった床に腰を下ろす。 萌志と並んで、ぼんやりと遠くに見える的を見つめた。 「今日、どうだった?……楽しくなかった?」 萌志は的を見つめたまま俺に聞く。 ごそごそとスマホを出して文字を打つ。 少し多めに感想を綴ってみよう。 『烏丸の出す音は好きだと思った。 マスクをしているから表情が読めなくて少し怖いけど。 渡貫は面白かった。 萌志を倒すって煽っているくせに、着てる服はすでに敗北宣言してたから。』 文字に目を通した萌志は小さく笑った。 「確かにそうだったね」と頷く彼の表情はどこか浮かない。 「暁はさ、俺といて楽しい?」 突然のその問いに、戸惑う。 楽しい、か。 どうなのだろう。 萌志といると、こんな感情が自分の中にあったのかと気づかされる。 楽しそうにしている萌志を見るのは好きだ。 でも、それに自分も混ざるのには抵抗がある。 萌志の纏う空気はきれいすぎる。 俺は汚いから。 でもこんなこと言ったら、こいつは怒るんだろうな。 「え、黙られるとショックなんだけど…。」 萌志の眉が八の字になる。 いや、萌志との時間は確かに楽しいには楽しいのだ。 楽しいんだけど、それを覆うように後から別の感情が押し寄せる。 萌志が萌志じゃなかったら、とか 俺が女だったら、とか。 そんな余計な考えが邪魔をして、せっかくの時間もあっという間に光を失う。 それをどう伝えればいいのか。 もどかしさにギュッと膝を抱く。 楽しい。 羨ましい。 遠い。 切ない。 苦しい。 膝に頬を乗せ、萌志を見る。 彼は不安げに床に視線を落としている。

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