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80 翩翻ーへんぽんー

トラウマ、失声症、フラッシュバック。 突き放した萌志。 そして、日下部愛生。 頭の中はもうパンクしそうなほど不安でいっぱいで。 以前よりもっと眠るのが怖くなった。 いつバレるのか、ビクビクして過ごす日々。 学校をさぼることもできた。 でも、それじゃ前と何も変わらない。 変わりたい。 その一心で、重い足を校舎に向けている。 そして、体育祭当日。 寝不足と心労で身体は重くて、頭が痛い。 でも、萌志が見たい。 一目でいいから、陰からでいいから。 遠くても俺は見つけられる。 泥にまみれて重たい気持ちがきっと少しの間だけ救われる。 こっそり萌志が出る種目の時間を確認して、昼前のタイミングでグラウンドへ向かう。 すでにクライマックスに近い賑わいをみせているそこは、到底近寄れないくらい眩しい。 ペイントされた頬に、靡く色とりどりのハチマキ。 団を鼓舞するようにたなびくフラッグ。 歓声や応援歌。 乾いたピストルの音。 羨ましくて、鼻の奥がツンとしてしまう。 何もかも夢だったらいいのに。 何かの瞬間に、この長い悪夢から醒めて。 当たり前のように話せて、萌志と肩を並べて、普通の高校生で。 そうだったら、俺は。 あの日向にいれたのに。 引きずるように前へ足を運ぶ。 グラグラする。 やっとの思いでたどり着いたフェンス。 金網にしがみつくように、指を絡める。 もうちょっと。 もうちょっと待ったら萌志が見れる。 それまで頑張ろう。 体育倉庫と手洗い場がいい感じに生徒の視界を阻んで、きっと誰も俺がここにいることなんか気づかない。 ほかの生徒と一緒にテントの中で見れたらよかったんだけど。 でもそんなの夢のまた夢だ。 朝礼台が少し邪魔だけど、十分グラウンドが見える。 冷たい金網に頭をつけて、目を閉じる。 ぼんやりした意識が、金網の感触にさらに溶けていきそうになる。 そこに、 『―――――あー、お待たせいたしました。続いては、弓道部による演目です……』 聞こえてきたアナウンスにハッと閉じていた目を開ける。 女子の黄色い歓声が聞こえてきた。 金網を握りしめて、視線を走らせる。 煽るような太鼓の音と共に入場してくる人影。 その中に萌志を探す。 (あ……) 真っ白な道着に身を包んだ彼の姿を見つける。 背中まで垂れる、白いハチマキが風で揺れていた。 手に持った長い弓。 引き締まったその横顔に視線が引き寄せられる。 いつか見た彼の弓道がもう一度見られる。 目の前の金網が消えてなくなったかのような錯覚を起こした。 胸がどうしようもなく高まって、涙が出てしまいそう。 掌で目元を拭って萌志だけを見つめる。 萌志が止まったのは、ちょうど俺の視線の直線上。 萌志が見つめるその先には、的が用意されていた。 いつの間にか、静けさに包まれたグラウンド。 そのまま、矢を番えるのだと思っていたら、生徒たちがどよめく。 俺も思わず息を呑んだ。 するりと道着の袖から肩腕を抜いた彼ら。 女子の悲鳴に近い歓声。 目に映った萌志は綺麗だった。 すごく、すごく。 鍛え抜かれた上腕から背中にかけての筋肉を思わず凝視してしまう。 スッと的に顔を向けた萌志。 その表情は、後ろにいる俺には見えないけど。 あの日の記憶と重なる。 声を出したいと、言ったあの日。 すべての始まり。 (萌志。) すべての動きがスローモーションに。 意識が全部彼に持っていかれる。 しなやかに動く、腕。 ふわりと風が持ち上げた、道着の裾。 矢が的を射るその音が耳に届くまで。 呼吸をすることすら忘れてしまうくらい、彼に魅入った。

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