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時間なんてなくなってしまえばいいと、思った。 何もかもぐちゃぐちゃになって、萌志もこの怪物も俺も、ひとまとめになって 時間も何もない『無』になればいいって。 そうすれば、考えることも傷つくことも幸せを感じることも、それと同時に忍び寄る不安も、全部全部最初から存在すらしなかったのに。 崩れ落ちた足元は。 くるくる回って。 ベッドも戸棚も机も、おもちゃ箱をひっくり返したみたいにぐちゃぐちゃに。 そんな錯覚を起こす。 萌志は何も言わない。 その顔が俺の方を向く。 それが嫌にゆっくりと感じた。 見たくない。 見るな。 でも金縛りにあったように俺は呆然と萌志を見つめていた。 「………え……?」 掠れた声。 見開かれた瞳。 俺を見下ろすその表情からは、光が消えていた。 絶望の波に飲み込まれる。 重たい身体はそこのない海に沈む。 呼吸ができない。 知られてしまった。 俺がもう誰にも知られたくなかったことが。 一番知られたくなかった相手に。 他人の口によって。 涙すら出なかった。 全身から力が抜け落ちていく。 萌志。 さようならだ。 もう遠目にすら見ることは叶わない。 萌志は何かを言おうと開いた口をパッと塞いだ。 何を、言おうとしたんだろう。 拒絶の言葉だろうか。 ……さっき言いかけていた言葉の先は。 もう聞けないんだろう。 その目はそっと俺から逸らされた。 こんな不幸な日は、二度と来ない。 汚い俺を知られてしまった。 「ごめん、俺……ちょっと。」 口を塞いだまま萌志は出口に向かう。 その後ろ姿をぼんやり見つめる。 白い道着は美しかった。 俺が闇にいる分それは、いつだって輝いていた。 その裾が完全に視界から消えるまで、俺は瞬きをしなかった。 乾いた音を立てて、扉が閉まる。 床に視線を落とす。 心に広がるのは、虚無感。 泣いたって声は出ない。 笑い飛ばすこともできない。 目の前のこの女を責めることすら許されない。 じゃあ、俺にできることって何? ……何もないだろ。 胸で浅い呼吸を繰り返す。 「ま、御波くんは言いふらすタイプじゃないでしょ。」 はは、と笑った日下部は戸棚を開ける。 何がおかしいんだろう。 沸々と怒りが沸き上がる。 こいつが女じゃなかったら、立てなくなるくらい殴っていたんだろうか。 いや、多分違う。 きっと男でも我慢した。 怒りに任せて暴れることなんて子供でもできるんだ。 前とちょっとでも違う、自分になりたかった。 「怒んないの?」 消毒液のボトルを握りしめて、日下部が俺の傍にしゃがむ。 近寄るな。 そう突っぱねる気力も残っていない。 虚ろな視線を彼女に向ける。 先ほどと変わらない、平然とした顔。 あぁ、だめだ。 視線を合わせたら腹の底が煮えたぎるように熱くなってくる。 「そんなに大事だった?御波くん。」 「……。」 「でも男の人だよ?」 「……。」 男とか女とか。 そんなの関係なかった。 大事だった。 失いたくなかった。 もう顔を合わせられない。 壊したくせに。 何でこいつは俺の横にいられるんだろう。 「ほらね、傷つくでしょ? 変われないんだよ。頑張ったって。 過去は変わんないもん。 人と知り合うたびに、隠そうとして、それで隠すことに罪悪感を感じるでしょ? バレて結局、離れていかれるなら、そもそも近づくのが間違いなんだよ。」 彼女の言葉がじわじわと心に滲みこんでくる。 ……そうなんだろうか。 萌志を無視しきれなかった俺が間違っていたんだろうか。 暖かい日向に、その横に行ってみたいと、影から夢を見てしまったのがいけなかったのか。 あの日、屋上で。 きらきらの星屑で魔法にかけられてしまった。 あの笑顔を忘れるほうが正しかったんだろうか。

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