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『違う。』 スマホを日下部に向ける。 文字を呼んだ彼女は、吐き捨てるような笑いをした。 「え、何が?」 『萌志は、違う。』 「……え?うそでしょ?ちょっと優しくされただけで。ただの勘違いじゃん?」 『勘違いでも、俺は前とは違う。』 「男に自分がされたこと分かってんの?気持ち悪くなんないの?」 『汚れてるのは解ってる。』 分かってる。 でもそれにずっと囚われてたら、 それこそお前の言う『負け』じゃないのか。 お前は足枷だ。 俺の進む道を、『同じだ』と塞がれてたまるか。 『お前と俺は違う。』 俺はもう、男に犯されて助けも呼べず震えていた子供じゃない。 「……は?」 グンと視界が反転して、日下部が俺に馬乗りになる。 身体にうまく力が入らない俺は、彼女と互角か下手したらそれ以下だ。 もがく俺を勝ち誇ったような笑みで見下ろしてくる。 「何夢見てんの?!変われないよ!!! フラッシュバックで眠れない夜も!!触られてるような錯覚も!!! 鳥羽くんならわかるでしょ?! あいつだって同じだよ!! 動物みたいに発情すんだよ!!!」 襟首を掴まれる。 黒髪が顔に垂れた。 陰になった彼女の顔は泣きそうに歪んでいた。 こいつも、俺と同じように日向に焦がれていたんだろうか。 足を踏み出すのを躊躇って。 裏切られるのが怖い。 その気持ちは痛いほど分かる。 でも俺が変わるのを止める権利なんてないんだ。 グイと、彼女の肩を押しのける。 びくりと掌の下で身体が強張った。 起き上がって日下部と目を合わせる。 赤くなった双眸。 置いていかれる子供みたいな顔をしていた。 それでもお互いの傷を舐めあって、ドロドロに沈んでいくなんて俺は御免だ。 怒りか恐怖か。 俺のシャツを握った手が震えている。 「何、よ。その眼。あんたもあたしを殴るの…?」 殴り倒したい気持ちは山々だけど。 でもこいつの傷は俺と同じ。 やられて悲しかったことは、しない。 こいつを救うのは俺じゃない。 ゆっくり立ち上がる。 腰を抜かしたように座り込む日下部を見下ろす。 『萌志は、違う。 クソ野郎と一緒にするな。 また同じことを言ったら許さない。』 彼女の反応を見る前に、踵を返す。 踏み出す度に、膝が震える。 力なんてもう残ってない。 萌志。 単純にお前の明るさに惹かれてしまったんだ。 止められなかった。 ごめん、嫌いだって嘘ついて。 ごめん、いつも迷惑をかけて。 ごめん、好きになって。 許してほしいなんて、言わない。 それでも今から行くから。 最後にその名前を呼ばせて。

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