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88 萌志ーきざしー
『小学生の時、男に犯されたせいで声が出ない。』
日下部さんの声が頭の中をこだまする。
暁の声が出ない原因をこんな形で知らされるとは思わなかった。
俺、今までなんてことをしてきたんだろう。
根本的に間違っていたんだ。
暁を好きになるなんて許されない。
だって、『男』に傷つけられた。
声が出なくなったのも、フラッシュバックで眠れないのも。
全部。
俺じゃ、駄目だ。
同じじゃん。
暁に欲情した。
そんな俺じゃもう、触れない。
触れられるのが苦手なんてそんなレベルじゃない。
なのに俺、強引に暁を抱きしめたりしてた。
ちょっと安心したようなその表情に調子に乗ってたんだ。
偽善者。
こんな、酷い。
俺が想像していたより遥かに、暁のトラウマは酷だった。
ぼろりと、涙が溢れる。
見つめた廊下にぱたぱたと滴が落ちていく。
ごめん、暁。
怖かったんだな。
大嫌いの意味はこういうことだったんだ。
拒絶されて当たり前だ。
暁が俺のことを嫌いでも、俺は暁が好き。
そう、言ってしまわなくてよかった。
でもトラウマの根源を知った今でも、その気持ちは変わらない。
日下部さんから聞かされた直後。
頭の中が真っ白になった。
己の愚行を悔いた。
『それでも俺は暁が好き』
そう言いそうになって、慌てて口を押えた。
男が根本的に駄目なのに、なんでそんなことが言えるんだ。
駄目に決まってる。
行く当てもなく、とぼとぼと校舎を徘徊する。
外階段の手前。
自販機の前で声をかけられる。
ぼんやり声のするほうへと顔を向けた。
「あっれ、萌志?お前、リレーほっぽって何やって……。」
「…渡貫……。」
スポドリの容器を握りしめたまま、渡貫が固まる。
たぶん俺が半分死んでるような顔してるからだと思う。
涙だって拭ってない。
「よ…よぉ……どうした、その顔…。」
「……うん………。」
彼の視線が足元を泳ぐ。
大方こういう時に何を言えばいいのか考えているんだろう。
口を開いては言い淀んで。
下手に何も言えないんだろう。
俺だってこんな状況に出くわしたら、何を言っても気休めにしかならないんじゃないかと
そう考えてしまう。
でも大体こいつは、
「……あ、あー、リレー!お前の代わりに烏丸が走ったよ。
あ、あいつ、めっちゃ足遅いんだ!
運動苦手なくせに、『俺がやる』って嬉しそうに…俺のとこ来て、
どんだけ自信あるんだよ~wって思ったら、めちゃめちゃ遅くて…途中でバトン落とすし…
あ、はは……。」
話を変えて盛り上げようとしてくれるんだよな。
でもきっと俺はうまく笑えてない。
気まずさが増して渡貫がしゅんと視線を落としたから、申し訳ない気持ちになった。
早く戻らせてやんねーとな。
「……わた、」
「き、萌志。」
「あ、うん。」
「……後で、烏丸にちゃんとありがとって言っとけよな。
あいつがリレーのあと、俺の水筒の中身全部飲んじまって、買わなきゃいけなくなったけど…。」
「うん…ありがとう、渡貫。」
「……俺は何も……やってねーけど…じゃあ、あとでな。」
「おう。」
ちらりと1度振り返って戻っていく渡貫を見送る。
渡貫も優しい。
烏丸は空気が読めないと怒ることもあるけど、その空気が読めないところに救われる時だってある。
烏丸も、渡貫も。
本当にいい奴なのに、俺は。
再び静かになった辺りに、孤独感が増す。
足元を掬うような冷たい風に、震える息を吐きだした。
1人になった瞬間、止まっていた涙が再び流れる。
嗚咽を漏らした口元を抑えて、しゃがみ込む。
見つめた一点は、ピントが合わなくなって。
次第に涙に飲み込まれていった。
瞬きをすれば、頬を伝って落ちていくのに
止まることを忘れたように溢れてくる。
変に堪えようと顔に力を入れたせいで、顔が熱い。
組んだ腕に顔を埋めた。
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