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94 澪標ーみおつくしー

教員室からの帰り際。 ミヤセンに『親御さんに電話するか』と言われた。 でも俺は首を横に振った。 だって電話越しで声を聴かせる気になれなかった。 直接会って、そして両親のことを呼ぶ。 散々泣かせて、帰っておいでという温かい言葉も無視し続けていた。 突然帰ったら何と言われるだろう。 怒られるのだろうか。 母の目をまともに見たのはいつ? 父のことは? 父の顔にはしわが増えているかもしれない。 まだ俺の帰りを待っていてくれるのだろうか。 今更、ただいまなんて言っていいのかな。 早く会いたいという気持ちと不安がせめぎ合う。 カバンなんて持ってきていなかったから、手ぶらのまま昇降口に向かう。 暗くなったその場所に萌志を見つける。 沈みかけていた心がいくらか軽くなる。 萌志に相談してみようかな、親のこと。 「……萌志。」 俺の声にパッと顔を上げた萌志が優しく微笑む。 「おかえり。ミヤセン、どうだった?」 「びっくりしてた。いつもより饒舌だった。」 「あはは、だろうね!」 笑った萌志が先を歩き始める。 少しだけ間を開けて萌志の後ろをついていく。 制服に戻った萌志の背中を眺める。 シャツの襟にかぶった、髪の毛。 くるんと上を向いていてかわいい。 頭を撫でたとき、あの指に絡みつくような。 フワフワした髪の毛。 子供みたいな萌志の髪の毛。 もう一回触りたい。 なんて思っていたら萌志が振り返る。 「……ねぇ、なんでそんな後ろ歩いてんの?」 ぎくりとして目を逸らすと、訝しむように双眸を細められる。 「どーしたの?」 「いや、何でもない。」 「ふーん…」 納得のいかないような声を出しながら萌志はそのまま俺の横に来る。 見上げれば目が合って、にっこり微笑まれた。 ここで笑い返せたら満点なんだろうけど。 俺は恥ずかしくて、また目を逸らしてしまった。 (かわいくねぇな、俺。) 人気のなくなった外廊下を横切り、駐輪場に向かう。 俺は徒歩だけど、萌志が自転車で来ているから。 もう疎らになったそこに、萌志がカギを指先にひっかけて回しながら入っていく。 金属がぶつかり合って、放たれる小さな音。 それが、萌志との一日が終わってしまうのを感じさせてくる。 出口で大人しく待っていると萌志が自転車を押しながら出てくる。 そして、ん!とハンドルを押して俺に自転車を差し出す。 「前乗って。」 促されるようにハンドルを握る。 跨ったサドルは少しだけ高くて。 少しだけ緊張してしまう。 おろおろしていると、荷台が大きく沈む。 「さぁ、レッツゴー!」 腹に回された腕。 ぶわわわと顔が熱くなる。 ギュッと後ろから抱きしめられると、うまく自転車を運転できる気がしない。 固くなった俺の耳元でくぐもった笑い声が聞こえる。 2人乗り。 夏以来。 ごくりと嚥下する。 よしやるぞ、と腹に力を入れる。 ペダルに足を乗せて、さぁ。 「……がんばって♡」 そう耳元で囁かれる。 その瞬間、俺は盛大に自転車を倒した。

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