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俺を見た母親はただ目を見開いて俺を見ている。 声を出そうと、口を開いたけど なかなか声が出ない。 口を噤んだ俺を見て、彼女は優しい声を出す。 「どうしたの、暁。 学校で、何かあったの…?」 まるで俺が、まだあの時の小さい小学生のままみたいな。 目線は俺を見上げているのに。 目を合わせれば、慈しみの笑顔を向けられる。 ツンと鼻の奥が痛くなって、今声を出せばきっと震えてしまう。 お母さん。 そう呼ぶだけなのに。 声が出るって。 もう泣かせたりしないって。 そう言えばいいのに。 声よりも涙が先に出てしまいそう。 こんな泣き虫じゃなかったはずなのに。 いつから俺の涙腺はバカになってしまったんだろう。 思わず、俯いてしまった。 なのに、 「うんうん。大丈夫よ。 とりあえず、おうちに入ろう? 御波くん、あなたも。」 「え、いいんですか?」 「実はね、深山先生からあなたの話聞いたのよ。」 いたずらっ子のような声色で、母は言った。 ミヤセン? あいつ何言ったんだ? ちらりと視線を上げて萌志を見ると、本人も「?」という顔をしていた。 開けられた、門をくぐって懐かしの我が家に足を踏み入れる。 それを母が嬉しそうに見ていることに、俺は気づいていた。 * 玄関に入ると、キャビネットの上に飾られた二つの写真たてが目に入る。 母親に肩を抱かれ、ピースサインを向ける俺。 父親にほおずりされて、渋い顔をしている俺。 空気入れの横に置いてあるサッカーボール。 傘立てに入った、小さな黄色い傘。 その傍にそろえられた、土で薄汚れた子供靴。 新しい、まだ固そうな革靴。 止まっている。 俺が壊れたあの日から。 この家は、小さな俺の痕跡で溢れかえっていた。 俺が部屋から出てこなかったから。 帰ってこなかったから。 両親の中では、俺はまだ小さな少年のままなんだ。 スリッパを脱いで、上がる母親の背中を見つめる。 小さくなった。 無意識に後ろに立つ萌志の手を握った。 小さく息を呑んで俺を見る彼の気配を感じる。 それからしっかりと温かい感触が俺の手を包んだ。 「……おかあさん。」 ぽろりと零れた声は、幼くて。 情けなく震えていた。 萌志を掴んだ手に力が入る。 母親の動きが止まった。 その背中にもう一度小さく声をかける。 「お母さん。」 ゆっくり振り返った母親の目から、ポタリと滴が落ちた。 そして震える手で口元を抑える。 小さく「え……?」と呟く声が漏れて、ふるふると首を動かす。 堪えるように顔を歪ませたあと、瞑った瞳から大粒の涙がその手を濡らす。 薬指に付いた指輪に落ちて、するりと流れていく。 ゆっくり彼女の足が俺の方に向かう。 促すように萌志の手が俺から離れた。 嗚咽を漏らしながら彼女はその手で俺の頬を撫でる。 温かくてやわらかくて、少し涙で湿った手。 しっかり触ってもらえるように身を屈めると、両手で顔を包み込まれる。 「うんうん…いっぱい頑張ったのね、えらいわ暁。」 「おかえりなさい。」 その言葉に我慢できなかった涙が俺の目から零れ落ちる。 頬を撫でるようにそれを拭われた。 母親がずっと待ってくれていたことを改めて知る。 「まー、こんなにピアスなんか開けちゃって…」と言いながら耳に髪をかけてくれる。 よしよしと温かい手に頭を撫でられて、涙が止まらない。 「ただいま、お母さん。」 そう言うと、嬉しそうに涙を拭って俺の首にしがみつく。 しっかりその体を抱きとめて、腕に力を籠める。 でも身体にかかった彼女の重みにへなちょこの俺はふらついて 「ぐふ…っ」 後ろの萌志に倒れこんでしまった。 ゴンッという音に萌志が扉に頭を打ったことに気づく。 母がパッと顔を上げて 「あっ!ごめんなさい!」 恥ずかしそうに顔を赤らめる 大丈夫ですと言った萌志の目元も少しだけ赤かった。

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