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父親の顔はあっという間にくしゃくしゃになって、つられそうになるのを必死で我慢する。 カバンを落とした彼は震えるその手で俺の頬を包んだ。 おかえりなさいと言えば、母と同じように強く抱きしめてくれる。 今日帰ってきてよかったと、そう思う。 父の肩越しに萌志を見れば、優しく微笑まれる。 俺より少しだけ低くなってしまったその肩に、顎を乗せて安堵のため息をついた。 懐かしくて、温かい。 少しコーヒーの苦さを纏った父の匂いは、変わらず優しかった。 * 1人じゃない夜は久しぶりだ。 こんなに人の声が自分を包んでいる。 その中には自分のもあって、少しだけ不思議な気分になった。 遠慮しまくる萌志に負けて、先に風呂に入った。 湯船につかったら、また眠たくなってきて早々に切り上げる。 髪の毛をタオルで拭きながら、自分の部屋に入ると 中央に置かれていた小さいテーブルは部屋の隅に移動されて、代わりに布団が敷かれていた。 その横にあぐらをかいて、スマホをいじっていた萌志が顔を上げる。 「ゆっくり浸かれた?」 「おう。」 母親と同じことを聞いてくる萌志に少しだけ笑ってしまう。 濡れた毛先から、滴が落ちた。 すると萌志が、傍らにスマホを置いて立ち上がる。 「ほら~ちゃんと拭かないと。」 「……っ」 肩にかけていたタオルをするりと奪われ、頭を包まれる。 下から掬い上げるように髪の毛を持ち上げて、わしわしと拭かれる。 やりなれているんだろうか。 手つきが優しくて、ついついされるがままになる。 目を瞑って、彼の手の熱が少し冷えた髪に移っていくのを黙って感じていた。 このまま寝てもいいかもなんて考えていると、萌志の手が止まってしまう。 少し物足りなさを感じつつも目を開けた。 「寝るなら乾かしてから、ね?」 「……ん、さんきゅ。」 萌志の言葉に渋々頷いて、タオルを受け取る。 洗面所まで一緒に下りて、脱衣所に入っていく萌志を見送る。 髪の毛を乾かす間、ぼーっと萌志の言葉を思い返す。 ドライヤーの風の音なんて、遥か彼方。 萌志に触られても、大丈夫と思っている。 というか、そう思いたい。 ハグも額にされたキスも大丈夫。 萌志は待つよと言ってくれたけど。 そもそも俺は抱かれる側なのか? 根本的なところに想いを巡らせてみるけど、萌志をエスコートする自分なんて想像がつかない。 無理だな。 早々に断念する。 萌志に触れられるなら、正直どうだっていいんだ。 ドライヤーのスイッチを切って、手櫛で髪の毛を整える。 鏡に映る俺は、腑抜けた顔をしていた。 部屋に戻って、萌志を待っていよう。 眠たいけど、昼過ぎにちょっとだけ寝たし。 萌志が戻ってくるまでは起きていられるはず。 ぺたぺたと階段を上がって、自室に戻る。 自分のベッドに目をやって、それから足元にある布団に視線を移す。 真っ白でふわふわした掛布団を見て、自然と床に敷かれているほうに足が向く。 そっと踏んでみれば、思わずにっこりしてしまう。 「ふわふわ。」 そのままぼふっと倒れこんで、目を閉じる。 溜息をついて、その柔らかさに恍惚としてしまう。 そこで、パチッと目を開いた。 ————いや、駄目だろ。 これは萌志の布団で…。 起き上がろうとは頭の中でしているんだけど、体はピクリとも動かない。 戻ってくるまでちょっとだけ。 15分とかそれくらいだろ。 足音が聞こえたら、何事もなかったかのようにベッドに高速ダイブすればいいんだ。 うんうんと自分に都合のいいように言い聞かせて、もう一度目を瞑った。

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