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第15話

     ◇◆◇  一度だけ、人の子を助けたことがある。 長い間生きてきて、たったの一度だけ。 その小さな消えかけていた命を、助けた。 月のような輝きを持った、小さな小さな人の子を。 最初は気が付かなかった。 ……忘れてしまっていたから。 人間にしてみれば大きな数年も、僕にしてみれば僅かな時間だ。あれだけ鮮烈に感じたあの光を忘れるなんて、きっと、僕の本能が忘れた方がいいと思ったからなんだろう。長い時間を生きると、些細な記憶を持ち続けるのがつらくなる。 心にずっと置いてしまうよりは、忘れてしまった方がいい。  そう、思っていたはずなのに。 「(神隠し、か)」 その記憶は、恐らく僕が消したものだろう。数日とは言っても、実際はあの事故が起こるまで僕は和秋と少しだけ会っていたことがある。あの社で、彼を待っていたことが。確かに。 「――――和秋」 とんとんと背中を叩くと、まだ不安そうな光彩が僕を見上げた。月の光に反射するその碧はまるで宝石のように色が変わる。  ーーどうしようもなく、堪らない。ここで踏みとどまらなければいけないと、僕は知っている。だから、少しだけ視線を逸らした。 「もう少ししたら、跳ぶから」 「―――…わかりました」 少し納得がいかない様子の和秋はそれでも僕の言葉に頷いて。 あの環は、僕が昔和秋に渡して、あの事故の後、牡丹に預けていたもの。まさか、もう一度渡すなんて思ってもいなかった。でも、もしかしたら牡丹は全部わかっていたのかもしれない。そう思うと、少しだけ釈然としないけど。それでも、僕が今できる最善の策はあの環を和秋に渡すことだった。 たとえ、また和秋の中から僕を消さなくちゃいけなくても。 眼下に広がる景色は、僕には最悪なものだ。人間の淀んだ空気は、僕の体にはよくない物。厳密に言えば、僕は人の負の感情に敏感ですぐに酔ってしまう。 和秋は、それがない。負の感情が全く感じられないから、傍にいても平気で、それにあまりにもきれいで、月の様で、僕は触れたくなってしまう。 それがだめだとわかっているのに。不用意に触るのは、駄目なんだって。 わかっていた、はずなのに。 「……和秋、とりあえず、神足喜三郎のところまで一気に跳ぶから、僕につかまってて。いい?」 「…………はい」 僕が渡した目くらまし用の布を被った和秋を抱き上げて、そう呟いた。小さく返事をした和秋が僕の首に腕を回したのを確認して、一気に地面をけると、心地いい浮遊感が体を襲う。 僕はこの感覚が好きだった。顔を撫でる風も、冷たくもなければぬるくもないこの時期特有の丁度いい気温。雨のジトっとした空気なのが残念だけど、それでもこの浮遊感が好きだからなんてことはない。 時折、木の枝で距離を稼ぎながら、一気に目的地まで跳ぶのは、正直僕にとっては簡単な話だった。 「よい、しょ。……はい、ついたよ」 赤い両部鳥居の前で和秋を降ろし、その鳥居を見上げた。 相変わらず、茅花山の雰囲気は最悪だ。狂い咲きで満開になった花が、まだあたりを照らしている。僕は呆けるように鳥居を見上げる和秋の手を取り、足早に歩きだした。 「っ群青さん」 「あそこだよ」 僕が指をさした方向に、その山荘はあった。 古い古民家のような、黒塗りのその山荘の入り口には、一人の男が立っていた。  ―――――赤い髪の、その鬼が。

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