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第22話

「戒」 帆夏さんが男の名前を呼んだのか、ふと男が俺のベッドに腰掛けた。ギシリと軋み、俺はまた小さく息を吐く。 「…………そう言えば、名前、言える?」 帆夏さんの声に、そちらに目を向けると、少し困ったように笑っていた。 「……和秋、です。橘、和秋」 「そう。和秋くん」 帆夏さんが俺の名前を呼んで、ポン、と頭を撫でながら言葉を続けた。 「和秋くんの、その空白の時間は今の君には思い出せないんだ。どう頑張っても、そのまま」 「ーーーーなん、」 「記憶は、消されてる」 消されてる?どうして? ただ、春祭りで祈りを捧げたかっただけだ。ただ、妹の無事を祈りたかっただけ。それだけだったのに。 「……これ」 赤い髪の男からゆっくりと差し出された掌には、小さな指輪。歪なソレには、見覚えがあった。 「君の着ていた服のポケットに入ってた。持っていたほうがいい」 小指にすら入らないであろうその小さな輪っかを受け取り、ジッと見つめる。 「…………俺、」 ぼとりと涙が掌を伝い、指輪を濡らす。 「あー、戒が泣かせた」 「…………泣かせたかった、わけじゃ」 しどろもどろになりながら話す赤い髪の男の人は、戸惑いがちに一枚のメモを渡してきた。 そこには見慣れない住所と、部屋の番号が書いてある。指輪を握りしめて見上げると、今度は彼に頭を撫でられた。 「――――ここに行ってみるといい。それから、こう聞いて「この環は、誰の物ですか」って。ここに居る彼なら、答えを持っているから」  ―――――――牡丹、と言う名前に、僅かな既視感。それでも、今ここで行ってもどうしようもないからと、明日、この病院を退院してから行ってみようとさらに強く指輪を握りしめた。  次の日の丁度昼を過ぎた頃。俺は病院を退院した。迎えに来ると言っていた両親に大丈夫だと伝え、昨日貰ったメモの場所を目指す。 見慣れない住所ではあるけれど、わからないわけではない。通っている大学の友達がこんな名前のマンションに住んでいたような気が、する。 ただ、何故かその記憶も朧気だ。俺は、記憶がないその三週間と祭りの間、一体何をしていたんだろう。 それに、妹は、美夜は――――― 「…………はぁ」 病院から電車に乗って、少し。最寄りの駅から徒歩でも15分ほどの距離にあるその大きなマンションは、やっぱり少しだけ見覚えがあった。 迷いなく自動ドアをくぐり、エントランスからまっすぐ進めばエレベーターがある。でもどうしてか、ここに来たのは一人じゃなかった気がするのに、そのぽっかりと空いた隙間に誰がいたのかわからない。 もう一度メモを見返してから、エレベーターのボタンを押した。上から降りてくる数字をじっと見ていると、目の前についたエレベーターがポーンと音を立てながら開いた。 「―――あら、和秋?」 「っ、え」 「珍しいのね?今日は一人なの?」 蜂蜜色の髪をした、男の人がにこやかにそう言葉を吐いた。オールバックの髪は癖があるのか軽く結っている。紫色の瞳が綻んで、俺は首を傾げた。 「すみません、誰………ですか?」 「……………あぁ、そういう、事ね」 少し悲しそうな顔をしたその人は、俺の頭をポンと撫でた。 「私は眞洋よ」 「――――眞洋、さん」 「えぇ、あなたは牡丹に会いに来たのでしょう?」 「あ、えっと、はい」 「そう。それなら、案内してあげるわ」 今、降りてきたエレベーターにまた乗り込み、おいでと笑う眞洋さんについて乗り込んだ。 「――――私の事も覚えてないのね」 「え?」 「いえ、こっちの話よ。でも、そうね。また会えてうれしいわ。少し………心配だったから」 壁にもたれ、腕を組みながら眞洋さんが困ったように笑う。 「俺、…………俺は、どうして覚えてないんですか?」 「―――――ごめんなさい。それは……私からは言えないわ。今から会う牡丹がきっと話してくれるから」 眞洋さんはもう一度、ごめんなさいと呟き、タイミングよく目的の階についたエレベーターの音に、にこりと微笑んだ。

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