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第26話
群青さんにとって、今のこの状況は不本意なんだろう。
「群青さんが………、いや、すみません。迷惑を……かけて」
まだぐらりと揺れる体を無理やり起こし、群青さんに頭を下げた。もう、このままここに居ても、俺はきっと迷惑しかかけることができない。
だから
「―――――この、環。群青さんの……ですよね」
「うん」
「牡丹さんが、言ってました。この環の持ち主は……俺と再会することを望んでないって」
「―――――――うん」
手のひらに乗せたいびつなそれを、俺は握りしめた。これがきっと、俺の記憶の唯一だったんだ。これがなかったら、牡丹さんに会う事も、眞洋さんに会う事も、今ここで群青さんに会う事も、なかったはずだから。
「これは、返します。もう、ここにも、来ない、ので」
声が震えて、視界が歪む。
群青さんと会えなくなるのが嫌だなと素直に思うこの心が、どうして俺の思考に従ってくれないのか、僅かに視線をそらして目を伏せた。
泣いちゃだめだと思うのに、涙があふれてしまう。
あぁ、嫌だ。これ以上迷惑をかけたくないのに。
「………そんなに、泣かなくていいんだよ」
顔を包むように触れた群青さんの手に、さらに視界がぶれてしまう。少しひんやりとした指先が、目尻をぬぐった。
「ねぇ、和秋」
コツリと額が触れて、俺は僅かに伏せていた目をぎゅっと強く瞑った。手が自分の涙で濡れていくのが分かって、言葉も出ない。
「僕は、和秋を……幸せにはしてあげられない」
どうして?
なんでそんなことを言うんだろう。俺の頬に触れる群青さんの手は震えているのに、どうしてそんなことを。
「僕は、君を泣かせたいわけじゃないんだ。記憶を……消したのは、僕にはもう会わない方がいいと思った、ただ、それだけだよ。君を嫌いになんて、もうなれないんだ。無理なんだよ」
また群青さんの親指が目元を撫でて、唇が涙をさらっていく。
「―――――――僕は、君とはまるで違う、人じゃない化け物だよ。でも、」
―――愛してしまったから。
小さく聞こえた声に、目を開けた。群青さんの瞳はやっぱり、金色に揺れている。
「ごめんね、和秋。君を傷つけるつもりなんて、なかったんだ」
「――――……俺より、群青さんの方が、傷ついてるじゃないですか」
頬に触れている群青さんの手を握り、俺はまっすぐその目を見返した。
「だって、………僕は、君が……」
―――ここに来ちゃダメだって、言ったろう?
―――危ないって、言ってるのに。
―――和秋。
「………群青さん、教えてください。全部、何があったのか」
牡丹さんは、あの部屋を出る前に一つだけ教えてくれた。記憶は「戻す」事が可能だと。ただ、それをできるのは「記憶を消した本人」だけだと。だから、俺が望んで、群青さんが納得してくれたなら、俺はその消えた空白を取り戻すことが出来る。
この胸の痛みから、群青さんをその泣きそうな痛みから解放できるかもしれないと。
「俺の、記憶、戻してください」
「!」
「ね?」
目を瞠り、群青さんが離しかけた手をさらに握りこんで。俺は言葉を続けた。
「群青さんを知りたいから」
「――――…だめだよ、和秋はこのまま僕に環を返して元の生活に戻るんだ。それで今まで通り生活ができるんだよ?」
「それが俺の幸せですか?このまま群青さんを忘れてしまうことが」
俺の幸せは、それじゃない。
このままこのかなしい人を忘れてしまうのは、俺の中の幸せじゃない。ただ、普通に戻ってしまうのは。だって、この人は――――群青さんは、きっと俺に「愛」をくれる人だから。
「………僕は、普通に生活ができないんだ。だから、君を……このまま手放してしまうことが」
たった一つ、僕にできることだったから。
群青さんは消え入るような声音で呟いて、俺から目を逸らすと、握った手を強く引いた。ふわりと抱きしめられて、背中に群青さんの腕が回る。熱に浮かされた体には、この少し冷えた群青さんの体温が心地よかった。
―――ぐん、じょう?
―――そうだよ。僕の名前だ。
―――ぼくは、和秋だよ。
―――和秋。いい名前だね。
「………おねがい。群青さんを、忘れたくない」
「かずあき…」
「だってきっと、何度でも探しちゃいますよ?俺」
ぎゅっと抱き返しながら笑えば、群青さんが少し体を離し、窺うように覗き込んでくる。不安そうなその瞳は、もう赤色に戻っていた。困ったように、迷ったように下げられた眉尻に、もう一度群青さんの名前を呼んだ。
「群青さん」
「………僕は、」
「俺、………………このまま、この感情の理由を知らないままで貴方を忘れたくありません」
俺の手の中にある環は、きっと群青さんの未練だ。
そう思う。だって、本当に会いたくないのならこんなものを俺の手元に残しておくなんてありえない。群青さんはそういう人だと思った。
だから、この環を俺の元に残した時点で、群青さんは迷っていたんだと思う。
「群青さん」
「――――後悔するかもしれないよ?」
「……しません」
「君を、また傷つけるかもしれない」
「俺、強いですから」
にこりと笑えば、群青さんがどこか諦めたように笑った。
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