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第一章 八
志岐の住むアパートの前まで送ると、志岐は小さな声で「お疲れ」とだけ言って車のドアを閉めた。椿の顔を見ることは、一度もなかった。行きも帰りも、結局志岐と話はできなかったことになる。
家に帰ってから、冷たいシャワーを頭から浴びた。
……何言ったんだ、俺は。私情を挟んどうすんだよ。志岐にしろ、桜田にしろ、好きでやっているかなんてわからないのに。見られたくないって、意思表示していたのに。自分から見るって言って。それなのに、あんなことを言ってしまった。
──冷たい。
──寒い。
志岐は、そんな顔をしていた。
温めてやりたいと思った。このままだったら、凍え死んでしまいそう。なぜかそう感じたのだ。だからあの寒そうな笑顔が。余計に自分の心を凍らせてしまうような笑顔が、嫌だった。
シャワーを止める。
自分は上辺だけの、スケジュールを把握して、仕事をとってきて、送り迎えするだけの、そんな仕事がしたかったのか? ……違うだろ。そのタレントの理解者になって、支えて、一番輝かせることができるような、そんな仕事がしたかったはずだ。
「よしっ」
わざと声に出して心を決める。
反省は終わりだ。反省が終わったら、次は行動に移す。それだけだ。
明日、志岐に会いに行く。
拒否されても、ぶつかっていく。元々頭なんか良くないんだから、相手が辛そうだと思ったらぶつかって理由を聞くしかない。うだうだ考えたって、いい考えなんか浮かぶわけないんだから。
志岐、逃げるなよ。
◇
「しーき。志岐志岐こんにちはー」
「……何そのテンション」
翌日、昼を過ぎるのを待って志岐の自宅を訪ねる。昨日の疲れから遅くまで眠っているかもしれないと思ったから。志岐は不機嫌そうな顔でドアを開けた。
「お前俺のとこ来る以外に仕事ないの?」
この前のようにどうにか押し入り、渋々部屋に通される。志岐は座布団を椿に放り、これまた渋々コップに水を入れてローテーブルに出した。
「どうも……水?」
「水しかない」
「水でいいよ、ありがと。それと俺は他にも仕事ある。人手不足で忙しいんだ」
「ならここ来るなよ」
志岐は軽く睨みながら、椿と同じように腰を下ろした。気怠げな様子に、昨日の疲れが残っていることがわかる。
「体調悪いなら寝てていいよ」
「椿が帰ったら寝るよ。今日は少し怠いだけだから」
「いつもは体調悪くなるのか?」
「別に。あいつとヤる時は平気。桜田は物足りないくらい馬鹿みたいに丁寧にするから。……他の奴の時は、酷いこともあるけど。お前の方こそ大丈夫?」
「俺が? なんで?」
志岐は、自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「こんな奴のマネージャーなんかになってさ。可哀想にな」
「可哀想じゃねえよ。志岐のマネージャーになれてよかったって思ってる」
正直言うと、まだそこまでは思えていない。自分が志岐にとって役に立てる人間になれていないから。そうなれたら、胸を張って志岐のマネージャーになれてよかったって言える気がする。
志岐は唇を噛み、それから絞り出すように言葉にする。
「何が、よかったんだよ……。ケツの穴に指まで挿れて、馬鹿じゃねえの。お前なんでもすんのかよ。俺がやってほしいって言ったら、マネージャーだからって何でもすんのかよ」
口元に笑顔を浮かべつつ、その瞳は椿を責めているようだった。
「俺がヤってって、それが仕事の練習だ、とか言ったらヤるわけ? 指挿れんのもちんこ挿れんのも変わんねえだろ」
「志岐、そんなことしねえよ」
「しねえよな。気持ち悪いもんな。嘘臭い笑顔張りつかせて、馬鹿みたいな喘ぎ声出して。気持ち悪いもんな」
「そんなこと思ってねえ」
「そうやって気を使われる方が、気持ち悪いって言われるよりずっと嫌だ」
……こいつ、ほんと捻くれてる。可愛気のないガキだ。これだけ捻くれた奴に、カーブで挑んでも無駄だ。直球で勝負しないと。
「じゃあ本音を言うけど、お前の顔、特に笑顔を見てると苦しくなって仕方がない。それはお前とAmeを重ねて見てるからだ。それは謝る。ごめん。だけど気持ち悪いなんて思ってない。指を挿れたのは、それが必要だと思ったから。俺だって少しは勉強した。あのときは掻き出さなきゃなんねえと思った。でもちんこ挿れんのは違う。それが必要だって言われたって、納得いかなきゃお前とセックスなんかするわけねえ」
椿が一息に言い切ると、志岐は呆気にとられて目をぱちくりさせた。
「一晩考えた。どうしたらお前と対等に話せるかって」
今がどっちが上とか下とかいうのがあるわけじゃない。そういう立場の問題ではなくて。
お互いが抱えてるものや、背負ってきたもの。どう生きてきたか、何がしたいのか。いや、そんな大きな問題じゃなくていい。何が好きで、何が嫌いか。たとえば、そんなこと。
そういう知っているものが対等じゃないと、椿は思う。
椿は志岐が何をやってきたのか、それはこの仕事の面だけではあるが、知っている。しかし志岐は、椿がこれまでやってきたことを知らない。
それが対等じゃないと思うのだ。
自分の考えを理論的にわかりやすく説明するのは苦手だが、自分の考えをどうしても志岐に知ってほしくて、どうにか言葉にして伝える。
「俺は別に……椿のこと知りたいなんて思ってない」
「可愛くねえ奴だな」
「可愛いわけねえだろ」
顔は可愛いのに、と言おうとしてやめた。そんなことを言っても、椿がAmeが好きだと言っている以上、それと重ねているとしか思われないだろうから。
「面白いもん見せてやる」
そう言って、椿は持ってきた鞄の中からノートパソコンを取り出した。ローテーブルの上で志岐に向けて開く。志岐は何を持ってきたんだと驚いていたが、構わず電源を入れた。パソコンが操作できる位置に移動する。そうすると、椿は志岐と並んで座ることになる。
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