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第二章 一

 椿が志岐のマネージャーになって一ヶ月が経った。  秋も深まり、事務所前の街路樹が鮮やかに色づいている。その木々を見上げながら、もう何回も志岐と歩いた。志岐は寒いのが苦手で、色づいていく葉を見ては季節の移り変わりを感じるのか「冬嫌いだ……」と呟いていた。秋を飛び越えて冬の心配をする志岐がおかしかった。  志岐とは、初めの仕事以降上手くやっている。相変わらず生意気だし、屈託なく笑うことは少ないが、たまに。極たまに、椿と話していて楽しそうに笑うときがある。志岐の本当の笑顔は、色っぽさとは無縁だった。幼なく屈託なく笑ったり。柔らかく微笑んだり。椿はそれを見るたびに、胸が温まるのを感じていた。  どんな仕事がしたいのか。なぜこの仕事をしているのか。  そういう話はしてない。志岐は、椿のことは聞いてくるけれど、自分の話はしようとしないから。  そして撮影とは別に、桜田にも何度か会っていた。  相変わらず掴み所のない男なのだが、「志岐」という共通の話題がある。椿の知らない志岐を最も知っている人物でもある。だから、たとえば志岐が何を考えているのかわからなくて困ると、相談したりしていた。椿から食事に誘ったりメールをするのは大抵志岐のことで相談があるからで、それに桜田は不満を漏らした。 「あめのことは可愛くて好きだけど、それ以外の用事でも呼んでよ。……ほら、ただ俺に会いたいとかさ」  と。  そう言われると誘い難く、自分からの連絡を控えていた。すると今度は志岐の方に「最近椿君どう?」なんてメールがくるらしく、志岐は不満を隠すことなく「ウザい」と桜田に返信していた。  この二人の気安さも相変わらずだった。  そんな、穏やかな一ヶ月が過ぎていた。  AV撮影を見ながら、「穏やか」と感じるのは、少し感覚が麻痺しているのかもしれない。志岐が最初の撮影のときのように、椿に見るなとかセックスしようとか、言わなくなったせいもある。  志岐の嘘みたいな笑顔を見ると胸が締めつけられる感覚は、やはり椿を苦しめてはいたけれど。  ◇ 「椿、今日の飯何?」  今日は志岐が椿のマンションに来ている。夕飯に食べるものが何もないと言うから、仕事帰りに車で志岐を迎えに行った。  最近志岐は、椿の家に来ることが多くなった。というのも、志岐が椿の作る料理を気に入ったからだ。特別料理が上手いわけでもなく、インターネットで調べながら適当に、という簡単なものばかりなのだが。  椿が住むマンションは、ダイニングキッチン+六畳が二部屋ある。一人暮らしには広いと思われる部屋なのだが、駅から遠く、近くにスーパーなどもない不便さからか家賃は安い。事務所に就職してから五年、ここに住んでいる。一部屋は寝室として使っていて、もう一部屋はリビングとしてテレビにローテーブル、ソファが置いてある。そっちで待っていればいいのに、志岐は大抵キッチンで椿が作っている姿を、わざわざ椅子を持ってきて座って見ている。  椿が料理をしているときが、志岐は最も喋るかもしれない。 「今日はハンバーグな」 「ハンバーグってファミレス以外で久しぶりに食う」 「簡単だから家でも作れよ。教えようか?」 「え、いい。料理しない。食べたくなったら椿に言うから」  これまでどうやって一人暮らしをしてきたのか不思議に思う。志岐は生活力がまるでない。  挽き肉を捏ねる椿の手元を興味深げに見ている志岐は、今日はオフだったからか、コンタクトは入れずに眼鏡をかけていた。 「今日は家にいたんだ?」 「なんで?」 「眼鏡だから。出かけるときいつもコンタクト入れるだろ?」 「そう。この眼鏡だいぶ前に作ったやつだから、あんま合ってないんだよね。だから出かけるときはコンタクトじゃないと不安。事務所か椿ん家程度なら別にいいけど」 「程度ってなんか失礼だな」 「ま、危ないことあれば椿が回避してくれんでしょってことで」 「そういう心にもないこと言うなよ」 「ばれたか」 「ばれるわ」  こうやって冗談も言うようになった。そういうときの志岐は、柔らかい表情をしている。わかりやすく笑ったりはあまりしないけど、緊張感がない顔をするのは、少しは椿に心を開いてくれているからだと思ってもいいのだろうか。 「あ、椿の携帯鳴ってる」  椅子に置いていた椿の携帯が震えている。着信のようだった。 「志岐、誰からか見て。事務所からだと困るから」 「見ちゃっていいの?」 「手ぇ汚れてるから早く」  志岐はぱっと携帯を取って、眉を寄せる。 「誰?」 「……桜田」 「じゃあいいか」 「いいよな」  着信が切れるのを待つと、今度はメールが来た。差出人はまたも桜田のようで、志岐は深い溜息を吐いた。 「椿さ、結構会ってるんだろ?」 「桜田と? まあ」  主に志岐のことで相談という目的だけど。  なんて言ったら志岐の機嫌が悪くなることはわかっているため、椿は曖昧に頷くだけにしておいた。 「ちょっと危機感持てよ。そのうち掘られるよ?」  ひき肉を丸めていた椿は、思わずそれを握り潰した。 「あいつ、ああ見えてヤるのはプロだから。うっかり乗せられたら絶対最後までヤられるぞ」 「そんなうっかりしねえよ!」 「じゃ、もしヤんなかったら俺との仕事は断るとか桜田が言い出したら?」 「……妥協案を出しマス」 「フェラまでならとか? そんなことしたらそのまま犯されるだけだから」 「あいつそんなに強引な奴じゃないだろ」  変な奴ではあると思うが。  脅したりとか無理矢理とか、そういうことはしないと思う。志岐とセックスしているところも何度か見たが、いつでも志岐を優しく労っているようだった。その印象が強いせいだろうか。 「も、いい。椿なんかさっさとヤられちまえ」  不貞腐れたように、志岐はリビングの方に行ってしまった。  志岐と上手くやっている。しかし、こういう喧嘩はしょっちゅうだった。喧嘩するほど仲がいい、というのとは違う、根本的な考え方の違いからの喧嘩。そういうとき、志岐はああやって逃げてしまう。次に会うときは、その話はしない。それは、本当に上手くやっていると言えるのだろうか。 「逃げんなよなー」  椿は小さな声で呟いてみるが、もちろんそんな声は志岐には届いていない。

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