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第二章 六
「離せ」
シャワー室の前まで桜田に抱えて連れて来られた志岐は、桜田の胸を押して遠ざける。
「あめ」
「何?」
「何じゃないだろ。大丈夫?」
「平気。クッソ、あいつ早漏かよ」
ぺっと洗面所に唾を吐く志岐は、すっかりいつもの調子に戻っているように見える。しかし、解かれた腕が震えている。
それに、笑顔だ。志岐が苦痛であればあるほど笑うことは、椿にはもうわかっていた。
「志岐」
「椿もかよ。何?」
「笑うな」
その一言で、椿の言いたいことがわかったらしい。志岐はすっと笑みを消した。
「いきなりだったから、びっくりして気管に入っただけ」
「ほんとに?」
志岐のそばに寄り、青ざめた顔を真っ直ぐに見つめる。
志岐も、それに応えるように視線を上げた。今までのように、逃げなかった。
「……嘘。気持ち悪くなった。ごめん。ちょっと吐いてきていい?」
微かに笑って、志岐はシャワー室に入っていく。椿が着いていこうとすると、桜田が「ここは俺に任せてね」と言って追っていった。椿は迷ったが、やはり志岐の様子が気になって、後ろから着いていった。
志岐は、しゃがみ込んで喉まで指を入れて吐いていた。それを流すためなのか、身体を綺麗にしたいのか、頭からシャワーを浴びている。
苦しそうに漏れる声。
時折びくんと震える背中。
駆け寄って抱きしめてやりたいと思うほどに、か弱く見えた。濡れたワイシャツが張り付いていて、いつもより余計に志岐を小さく見せていた。
なんで、そこまでする。
やめればいいのに、こんなこと。
そんなマネージャーとして失格であるような言葉ばかりが、椿の喉から出ようとする。
何度か嘔吐して、ようやく志岐はシャワーを止めた。
「あめ、大丈夫?」
桜田の声に、志岐は顔を上げて振り返る。顔は青ざめたままだ。よろよろと立ち上がりながら「大丈夫」と桜田に答える。
「あめ」
「何だよ」
桜田が両手でバスタオルを広げる。まるでここに飛び込んでこいとでも言うかのように。
「おいで」
「何でだよ。タオル貸せ」
しかし桜田はタオルを渡さない。志岐は渋々、桜田が広げるタオルにそっと身体を寄せた。桜田は志岐の身体を包むと、椿と志岐を安心させるようにいつもどおりの、優しげな笑みを浮かべた。
「さっきも思ったけど、あめちょっと太ったね。抱き心地良くなった。椿君に栄養与えられてるからかな」
「こいつの飯美味しいから」
「いいな」
「羨ましがってろ」
桜田の笑顔と軽口を叩く志岐に、椿はほっとする。
「はい。口直しね」
桜田はそう言って志岐にキスをした。
カメラが回っていないときに、椿の前でこんな風に桜田と志岐が身体を合わせることは今までなくて、動揺する。
「……ありがと」
てっきりまた皮肉を言ったり怒ったりするかと思った志岐は、ぽつりとお礼を言って、桜田から身体を離す。
「どうしても辛いなら、社長に言って今回は断るか……?」
駄目だと思いながらも、思わず口から零れてしまう。志岐はそんな椿の目の前にやってきて、強い視線で射抜いた。
「辛くない。これが俺の仕事。ちゃんとやってみせるから、椿は黙って見てろ」
不敵に笑って、椿の横を通り過ぎて行く。
「髪とかいろいろ直してもらってくる」
そう言って、志岐は部屋を出て行った。
「動揺しちゃって。椿君可愛いね」
「は!? この流れでそういうこと言うか!?」
「はは、素に戻ってる」
「あ」
「いいね。可愛い」
へらりと笑う桜田に、緊張感は感じない。やはり掴めない男だ。しかし、確かに志岐を助けてくれたのだとわかっている。
「ありがとうございました」
「いいえ~? あめ好きだからさ」
「へ?」
志岐のことが好きってこと?
志岐がキスを好きってこと?
椿が意図を図りかねている様子が可笑しかったのか、桜田は楽しそうに笑って、椿に手を差し出す。釣られて椿も手を出すと、そこにコロリと何かが落とされた。
控室にあった飴だった。
「あめ、その飴好きだからさ」
あ、何かギャグみたい、なんて言って桜田は笑っている。
……さっきのキスは、飴を口移ししたのか。
椿は何となくほっとする。
「あ、ほっとしてる。何? 俺があめを本気で好きだと思った? ヤキモチ焼いちゃった?」
……いい奴だとは思うけど、この人ちょいちょい面倒くさいよな。
「それにしても。志岐はすごいですね。最後までやり通すっていう……プロ根性?」
話を逸らすためにもそう言ったが、桜田はなぜか可笑しそうに笑う。
「プロ根性? 違うでしょ。あめのあれは、自傷行為だ」
「自傷行為……?」
「あめは辛いからやってるんだよ。自分を傷つけたいんだ。自分をより傷つけたいから、辛ければ辛いほど逃げない。人を巻き込んだ自傷行為だね」
気づいていた。あの嘘の笑顔を見たときから。けれど面と向かって言われると、それは椿の心を深く沈めた。
「あめの自傷行為に、俺も君も協力させられてるってこと」
桜田は微かに笑い、椿の頭を一撫でしてから部屋を出て行った。
“自傷行為”
椿はその言葉を反芻し、唇を噛み締めた。
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