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第二章 八
志岐はやはり体調が悪いようで、青白い顔で椿の車に向かって歩いていた。椿が走ってそれに追いつくが、志岐はちらりと視線を寄越しただけで、何も言わなかった。
「志岐? 大丈夫か?」
車に乗り込み後部座席で横になる志岐は、辛そうに眉を寄せて額に汗を浮かばせている。
撮影場所からは、椿の家の方が近い。どうせ一人で家に帰らせても何も食べないのだろうし、自分の家に来たほうがいいだろうと考え、椿は車を走らせる。一刻も早く寝かせたい。
「俺ん家行くぞ? 体調良くなったら家まで送るから」
「吐きそ……」
「マジか。あー、いいから。吐いちゃってもいいから。つーか吐け。それで楽になるなら吐いちまえ」
背中でもさすってやりたいが、運転中だからもちろんそんなことはできない。背後の志岐に向かって声をかけることしかできなかった。
「吐くなら窓開けるから大丈夫……」
「いやそれ大丈夫でも何でもないからな!?」
焦りながらも、家まで何とか志岐を連れてくる。
志岐は家に上がるまでは耐えられていたが、部屋に入った途端、トイレに駆け込んで吐いた。
「志岐」
便器に顔を突っ込む志岐の背中を擦る。
「クッソ車酔った」
撮影中にも嘔吐してもう胃の中に何も残っていないせいか、一度だけ吐くと、志岐は落ち着いて便器から顔を上げた。
「乗り物酔いじゃねえだろ。それ何の見栄だよ」
「ほんとだし。吐いたら治ったし」
アキトに酷く抱かれたこと、桜田の言葉で心を消耗しているのに違いないのに、それを隠そうとする志岐。
気にしていないふりをしている。志岐は、逃げている。
「志岐、話しねえ?」
「してんじゃん。なあシャワー貸して。早く帰りたくて後処理ちゃんとしてないから」
「いいけど」
志岐はよろよろと立ち上がる。
「手伝った方がいい?」
「いらない。タオル貸して」
志岐。
このまま逃げるつもりか。桜田の言葉、なかったことにするつもりか。そんなこと、させないからな。
『当たり障りがないのは、もういいよ。志岐に何があったのかはわからないけど、もう甘えないで歩き始めてもいいと思うんだ』
桜田の声とともに思い出したのは、若林の言葉。
志岐が浴びるシャワーの音を聞きながら、椿はもう一歩踏み込む決心をする。
それから三十分以上経っても、志岐は浴室から出てこなかった。
まさか中でぶっ倒れてるんじゃないだろうなと、椿は不安になって浴室を覗きに行く。磨りガラス越しにぼんやりと動いているのが見え、倒れているわけではないとほっとして息を吐いた。
「志岐―? 大丈夫か?」
返事はない。
「志岐?」
今度はもう少し大きな声で声をかけるが、やはり返事はない。扉をノックすると、ようやく返事があった。
「向こう行ってろ。まだ時間かかるから」
「は? なんでそんな時間かかんだ」
返事はない。しかし、志岐が扉に寄りかかったのがわかった。ガラスがギシっと鈍い音を立てる。
「綺麗になんない……」
「何? シャワー止めるかもう少し大きな声で話せ」
「椿、お前ほんとに俺のマネージャーになってよかったって思ってる?」
「志岐?」
か細い声に、耳を澄ます。
「椿を、俺は苦しめてる……?」
変だ。様子が。
「ドア開けんぞ」
「やだ」
残念ながら、浴室の扉のロックは壊れている。椿は躊躇うことなくドアを開いた。
浴室の中は冷えきっていた。
「お前……水!?」
志岐は冷たいシャワーを頭から浴びていた。
驚いて思わず怒鳴った。
「 何してんだよ!?」
服が濡れるのもかまわず、飛び込んでシャワーの温度を水から湯へ変え、志岐に頭からかける。
志岐は震えていた。唇も手足の爪も紫色に変色している。
まさかずっと……!?
「何してんだよ、志岐……っ」
俯いた志岐は、何も言わない。
湯を溜めて浸からせた方がいいかもしれない。
「なんて言ってた? 俺を、なんだって?」
自分はどうにか平静を取り戻そうと、椿は努めて静かな声で志岐に尋ねた。先ほど志岐が溢した言葉。それがとても重要なことだったのだと思うから。
シャワーから、湯を溜める方に切り替え、志岐を湯船に入れさせようとするが、その足元がふらついているのに気がついた。
早く上がって、寝かせた方がいいかもしれない。
湯を止めて浴室から引っ張り出そうとすると、そこでようやく、志岐は抵抗を見せた。
「まだ……!」
「志岐?」
「綺麗になんない! あいつのがまだ、中に残ってる!」
「残ってない。どれだけここにいたと思ってんだ」
志岐はこんなに、不安定だったのか? 無愛想で皮肉屋で、男を誘う術を持っている志岐。しかし今の志岐は、ただの弱い子どもに見えた。
今までも、志岐が子どもだと感じることはあった。しかし、それとは違う。ただのいつものガキっぽいのとは違う。人の言葉で傷ついて、それにどう対応していいかわからない、世間を知らない子どもだ。
その子どもを、桜田は守っていたのかもしれない。
桜田がしたように、志岐をタオルで包み、抱きしめた。震える背中を、あやすように撫でる。
「大丈夫だって。志岐は綺麗だよ」
綺麗だと思う。
自ら汚れようとしているのに、なぜか綺麗なままに見える。
それは慰めるためではなく、椿の本心が言わせた言葉だった。
「嘘だ……」
「俺の自慢のタレントです。どこに出しても恥ずかしくない綺麗な子です」
「何キャラだよ……」
嫌がるかと思った志岐は、椿を避けることはせず、抱かれたまま大人しくしている。
まだ、震えているけれど。
少し太ったと思っていたのに、こんなに華奢だったのかと、思った。
「志岐、話そう?」
「……話せること、ない」
「……そっか」
少し落ち着いたのを見て、抱いたまま浴室を出た。
ソファに座らせ、志岐の服を取りにいくために離れようとしたら、志岐は椿のシャツの裾を引いた。
志岐の隣に座る。
「寒くねえ? 服、着ろよ」
隣の志岐の顔を覗き込むように見ながら言う。
志岐の身体が、再び冷えてしまうと少し焦る。
「さっきの、もう少しだけ」
ぽつりと言われた言葉の意味を理解するまで、しばらく時間がかかる。
抱きしめてほしいということかと理解し、志岐はどうしたんだと慌てるが、そうしているうちに志岐の開きかけた心が閉じてしまう気がして、どうにでもなれと、椿はもう一度志岐を抱きしめた。
頭から被ったバスタオルで包むように。少しでも、温まったらいいと思って。
しかし志岐は、少し椿から身体を離し、バスタオルを床に落とした。
何も身につけていない志岐が、椿を見つめる。
引き寄せられるように、志岐を抱きしめた。一瞬息を詰めた志岐は、抱きしめているうちに、安心したように息を吐く。
「お前温かいな……」
人の温もりが、欲しかったのか。
なぜ、話したくないではなく、「話せない」と言うのか。
聞きたいことは山ほどあるのに、静かに泣く志岐に、話はあとでもいいかと思い直す。
今はこの子どもの心を、守りたいと思った。
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