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第二章 九

「おい、打ったか? メール」 「うるさいな。打ったよ。ほれ」 「お前……『悪かったね』だけかよ。もう少し何かないのか?」 「じゃあ椿が打てばいいじゃん」 「それじゃ意味ないだろうが」 「ああもう、なんでそんな桜田の肩持つんだよ」  しばらく抱きしめていると、志岐は泣きやんで椿を離した。  照れ臭そうに顔を赤くして、「さっさと服持ってきて着せろ」と理不尽なことを言いだす。  普段なら腹が立つ志岐の生意気な口調に安心し、椿は笑って服を着せた。  今は、桜田あてにメールを打たせている。桜田が志岐を思って厳しいことを言ったのは、志岐もきちんとわかってる。でも絶対、自分からは素直になれないんだろうなと思ったから。 「志岐、温まったか?」 「うん」  ホットミルクが入ったマグカップを持つ志岐は、結局一言だけ打ったメールを桜田に送り、ソファに座っていた。  一言だけでも、本当はいいと思う。一言だけでも、あいつには伝わるんだろうなと思うから。 「あのさ……」  自分でも、声に緊張が滲んでいるのがわかる。  表情が緩んだ志岐に、先ほどの話を蒸し返すのは、少し躊躇される。しかし、話さなければ。話せることがないとしても、せめて、何を考えているのかを聞かなければ。理解しなくては。 「俺、ほんとは男に抱かれるの好きじゃない」  隣に座っていた志岐の言葉に、どう切り出すかを考え込んでいた椿は、一瞬何のことかわからず呆ける。 「え?」 「えって。そういうこと、聞きたいんじゃなかったの?」 「けど、話せないって……」 「ああー、話せないって言うのは、こういうことじゃなくて……それは、いいんだ。うん」  志岐は、微笑んだ。嘘の笑顔じゃなくて。  それは、ほんとの── 「好きじゃ、ねえの……?」 「……うん」 「好きじゃねえのにやるのは、桜田の言うとおり、自分を傷つけたいから……?」  泣きそうに微笑んだまま、志岐は静かに頷いた。  どうして笑っているのだろう。 「なんで……?」  なんで、自分を傷つけたい? どうしてこんな方法を選ぶ?  椿の頭にあとからあとから浮かんでくる「なぜ」という言葉。志岐は、それには答えない。  答えられないのは、こういうこと? 「椿、Ame好きなんだろ? CDある? 聞きたい」  唐突に、志岐は言った。  椿はたくさんの「なんで」を飲み込む。  志岐は話してくれた。それは悲しい言葉だったけれど、本音を。話せないことはあるけど、でも、話してくれた。今は飲み込もう。志岐はきっと話してくれると思うから。話せるときがきたら、話してくれると思えたから。  だから今は。 「テレビに出てたときの、DVDに落としてあるけど……」 「顔はいい。声だけで」 「俺は顔も好きなの」  そう言って、DVDをプレーヤーに入れる。  ───子どものような、弱さを見せる志岐。自分を傷つけ、吐いて泣く志岐。  もうだいぶ前……5,6年前も前の映像。懐かしいCMの後に、彼女が映る。隣に座る志岐と、同じ顔をした人。  ───周囲の人に守られながら、それを裏切り、自分を傷つけ続けている。  彼女は笑顔でカメラの前に立つ。幸せそうに、両手で握ったマイクを宝物のように、愛しそうに見つめる。  ───笑顔は嘘。自分をさらに傷つけるために浮かべるもの。  澄んだ歌声。透明感がありながら、感情を乗せて豊かに歌い上げる。悲しい歌だ。自分自身を曝け出すことはできず、生きながら死んでいるようだと笑顔で歌う。  悲しい歌を、彼女は笑顔で歌う。  志岐は膝を抱えて俯き、テレビの画面は見ない。自分の呼吸の音さえ邪魔だというように、息を殺して歌だけを聴いている。  やがて、ぽつりと言った。 「椿、Ameの顔が好きなの?」 「うん。顔も好きだよ」  志岐とそっくりな顔である手前答えにくいが、正直に答えた。 「歌が好きなんじゃないの?」 「もちろん歌も好きだけど、顔……なんかそれだと外見だけ見てるみたいでちょっとあれだけど……表情がな、好きだったんだ」 「表情……」 「Ameってさ、自分で作詞してたの知ってる?」  顔の話をしていたのに話が変わり、志岐は不思議そうに首を傾げた。 「どうだったかな」  志岐の答えを聞いて、椿も不思議に思う。Ameがデビューしてからすべての曲の作詞をしていたというのは、ファンなら当然、ファンじゃなくてもよく知られたことだったのに。 「それで? それと顔が好きってのと、どういう関係があるの?」  志岐に促され、椿は考えながら言葉にする。ずっと心に思ってきたことだけど、誰かにそれを伝えたことはなかったから、どう言えば伝わるか言葉を探す。 「うんとな、Ameってさ、デビューが十四歳だったじゃん。十四歳の女の子が書くには、すっげえ暗い歌詞だったんだよ。デビューした当時の、バラード」 「『嘘』」 「そう。あ、知ってる?」 「まあ」  テレビのAmeが歌い終える。最後まで笑顔で。見ている人が思わず微笑んでしまうような、可愛らしい笑顔だった。  DVDが別の歌番組に変わる。時系列がバラバラになっているから、いつの何の番組か、わかるまでに時間がかかる。  ランキング番組だった。これは、Ameが初めてオリコン一位をとったときのものだ。 「すごく暗い歌詞。これが、なんで売れたんだろ……」  志岐はテレビを見ながら言った。  テレビの奥の、もっと他の何かを見ているように、椿には見えた。 「志岐」 「え、何?」  呼べばこちらに戻ってくる。  戻って……うん。何だか、遠くに行ってしまうような気がしたんだ、今。 「いや……えっと、それでな、ただ暗い歌詞を、かっこつけて書いてるんじゃないと思った。あれは本当に、何か辛いことを経験してたんだと思う。それなのにな、あの子は歌うとき、いつも笑顔だった」 「それ、歌詞を無視してるじゃん。そんなのがよかったの?」  志岐は表情なく、問う。 「違うよ。辛い経験をしてたんだ、きっと。それでも笑える強さを持ってる子だったんだと思う。それってな、すごいと思うんだよ。俺は、辛いときに辛いことに浸りきって、笑えなかったから。辛いのを隠して歌う強さ。幸せそうに歌うところに、俺は惹かれたんだ」  自分より年下の子が。  あんなにか弱く見える子が、笑うんだ。その笑顔で、たくさんの人を癒やしたんだと思う。 「すげえ語ってる」  志岐はクスっと笑った。  馬鹿にされたのかと思い、椿は少々恥ずかしくなって、志岐に背中を向けてそっぽを向く。志岐も温まったことだし、そろそろ夕食でも作ろうかと腰を浮かした。  その時。  ──背中に、重みを感じる。 「志岐?」  椿の背中に額を擦り寄せ、志岐は何か呟いた。  聞き取れない。掠れた、儚い声。 「……椿」 「何?」 「椿由人」  今度ははっきりと、椿の名前を呼ぶ。  ああ、志岐はここにいる。  椿はそう思った。  静かなバラードが流れる中、志岐の体温を感じる。温かさに、なぜか涙が出そうになった。  俺、年取ったんかな。涙脆くなったのかも。昔は、絶対泣かなかったのに。こういうことで涙が出るって、すっげえ年取った気がする。でも、いいか。志岐も、泣いていたし。そうだよ。こいつはよく泣くじゃん。俺より若いのに。……まあ、志岐の泣き顔はAVの中でよく見るものだけど。

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