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第三章 三

 ◇  翌日、椿は社長に他の社員が出社する時間よりも早くに呼び出された。  こんなことは初めてだったから、少し緊張しながら、事務所のドアを開いた。社長はすでに来ていて、暖房をつけて室内を温めてくれていた。温かい空気を肌に感じ、少しほっとして息を吐いた。 「ごめんね椿君、朝早くに。寒かったでしょ? 今年は十一月でももうかなり冷えるねえ。今日も十二月下旬なみの寒さって言ってた」 「十二月下旬ですか? どうりで寒いわけだ。でも平気です。おはようございます」 「おはよう。相変わらず自転車?」 「はい」  社長は「自転車寒いなあ。僕には無理」と言って苦笑した。  昨日桜田から志岐にストーカーらしきものがついていると聞いたばかりだったし、このタイミングでの社長からの呼び出しに、椿は緊張を隠せなかった。  今日オフの志岐自身には、仕事のあと家に寄ってストーカーのことを聞こうとしていたから、まだ話を聞けていない。しかしそのことも、社長の耳に入れておいた方がいいかもしれない。 「最近どう?」 「志岐がですか? 俺がですか?」 「もちろん二人とも」  社長に勧められて、上着を脱いでソファに座った。社長がコーヒーを淹れてくれる。 「すいません。ありがとうございます」 「いえいえ。いつも椿君に淹れてもらってるからね。たまには」  温かいコーヒーを一口飲んで社長の穏やかな笑みを見ていたら、どう話をきりだせば良いのかと迷っていた気持ちが整理されるのを感じた。 「志岐は、最近AV以外の仕事も引き受けてくれるようになりました。口ではなんだかんだ言ってますけど、AV以外の仕事の方をやりたがっているように見えます」  やりたいから、あえてやらなかったのだろう。やりたいことをしてしまったら「自傷行為」ではなくなってしまうから。それが最近変わってきたのは、何か心境の変化があったからなのだろうか。  話せるようになったら話してくれる。そう信じて、また椿から問いただすことはしていなかった。 「そうだね。天音がやっと最近、本当に心から笑っているように思えるよ」 「そうですね」  少しだけ、楽しそうに仕事をしてる。  葉山社長は志岐が事務所に来たときから親のように見守ってきたから、最近の志岐の変化を嬉しそうに、心から愛しそうに見ている。社長にそんな顔をさせられたのは、椿も嬉しかった。社長は椿にとっても恩人で、尊敬している人だから。 「椿君も、ずいぶん仲が良くなったみたいだね。桜田君と?」  予想もしていなかった言葉に、椿はぶーっとコーヒーを吹いた。  よし、ストーカーのことについて話そうと決めたところだったのに、頭の中がまた散らかりだす。 「あれ? 別に仲良くなってもいいんだけど……何かあった?」  社長の方が目を白黒させている。  あの時間の車の中での様子なんか、偶然見られるわけもない。焦ることなどないんだと、無理に飛び跳ねた心臓を落ち着けようとする。事務所からは遠い桜田の家の前なのだし。 「い、いえ。昨日も志岐と桜田と一緒に夕飯食ったばかりだったので」  ちょっと驚いただけです、とごにょごにょと言うと、社長にクスクスと笑われた。  ……何か感づかれているような気がしないでもない。 「さて、今日は近況を聞きたかったのもあるんだけど、もう一つ」  社長が笑みを消して、一枚の茶封筒を机の上に置いた。厚みがある。 「何ですか?」  宛名は記載されていない。すでに中身は確認したのか、封は切られていた。 「ちょっと見てみてくれ」  そう言われて、椿は封筒を手にとってみる。中身が一枚二枚ではない重さと厚みを感じた。それを出してみる。A4のコピー用紙が一枚入っている。三つ折にされていたそれを広げてみた。  ぎょっとするような赤字の、印刷された文字が目に入った。その見るからに危険を感じる文字に、言葉の意味を理解するのは少し遅れる。 『志岐天音を辞めさせろ』  書かれていたのは、志岐に対する誹謗中傷。それから、明らかに盗撮だとわかるような、プライベートの志岐の写真が数十枚入っていた。志岐の家を写しているものもある。 「これ……」 「昨日下の郵便受けに入っていたんだ。心当たりあるかい?」 「志岐が、最近視線を感じてるらしいって……桜田さんが、言ってました。俺はそれを聞いて、今日本人に確かめようと……」  椿は正直に、自分に対して話されたわけではないことも含めて話す。  自分に話してくれなかった志岐に対する怒りではなく、自分の不甲斐なさに腹が立つ。  これだけ撮られているのだ、「視線を感じている」だけではないと思う。必要以上に桜田にも心配をかけないようにそう言ったに違いない。  最近、俺の家に頻繁に来ていたのは、こたつのためなんかじゃなかったんだ。不安を感じていたのだろう。それに気がつけなかった、自分が情けない。  椿は悔しさに唇を噛んだ。 「椿君、今日天音に聞くって言ってたね?」 「はい。聞きに行きます。一人で出歩かせない方がいいですよね。自宅もわかってるってことは……俺ん家に泊まらせます」 「椿君の家も知られてる可能性が高い。もし少しでも変なことがあれば、すぐにホテルを用意するから言ってくれ」 「わかりました。警察は……ちょっと厳しいですかね」 「そうだね……一応届けてはみるけど、写真と手紙だけだからね……天音の仕事のことも考えると、動いてもらうには難しいかもしれない」  本名でこういう仕事をしている志岐の、自業自得と言われてしまえばそれまでだ。しばらく仕事を控えて……と言われても、志岐が引くかどうか。説得はしてみるが。 「今日志岐と話をしたら、社長に連絡します」 「待ってるよ」 「ちょっと連絡してきていいですか? ふらふらほっつき歩かないように言っときます」  席を外そうとした椿を、社長は「もう一ついいかな」と引き止めた。  椿は腰を下ろす。 「椿君は……Ameのファンだったよね」 「Ame、ですか? はい」  社長は、電源を入れていたパソコンのインターネットを開く。検索画面が表示された。そこで、「志岐天音」と打つ。  そうすると、「志岐天音 Ame」という文字が一番に出てくる。  それには驚かない。少し一般誌の露出があった志岐が話題になれば、顔がAmeとそっくりだということは、当然騒がれることだと椿は思っていたからだ。  ただ椿が驚くのは、それを社長が自分にわざわざ見せたということだ。

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