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第三章 五

 何がそんなに嬉しいのだろう。  そんな風に喜ばれてしまうと、何だか照れくさくなってしまう。  ちょうど良いタイミングで信号が変わって、椿はその照れくささを隠すように車を走らせた。 「椿友達いなそうだもんな。俺貴重な友達だな」  可愛い顔をしていたかと思えば、志岐は楽しそうに馬鹿にしてくる。 「それお前もだろ。志岐も絶対友達いねえだろ」 「はあ? いるし」 「俺だっているし」  そして二人で一瞬顔を見合わせる。 「「桜田とか」」  二人して噴き出すように笑った。 「ああでもほんと、椿に心配されるのが嫌なのもある。だからあんまり、心配しないで」  笑いがおさまり、志岐は柔らかい声で言った。決して距離をとるようではなく、あくまで近くに置きながら、椿を労るような優しい声だった。 「頼りない?」 「そうじゃないって。違くて。そうだなあ、多分俺も、椿を友達……だと思ってるから、だからきっと、余計な心配をかけたくないと思ったのかもしれない」 「桜田は? あの人には話したのに」 「あいつは……、椿だって、桜田には相談してるじゃん」  どきりとした。志岐のことをちょくちょく相談していること、隠しているつもりだったから。  それで昨日のキスまで思い出して、気まずさを感じて変な汗をかいてしまう。 「……椿、桜田になんかされた?」 「なななない! 何も!」 「されたな」  志岐に深い溜息を吐かれてしまう。  なんだこれ。俺が志岐に問い詰めていたのに立場が逆転してるぞ。 「椿が俺たちみたいのに抵抗ないのはありがたいけど、桜田に何かされんのにも抵抗ないのは困る」 「困る?」  聞き返して、チラリと志岐に視線を向ける。目が合うと、志岐は「前見て運転しろ」なんて言って逸らしてしまった。 「困るっていうか……俺が、嫌だから、桜田に何もさせないで」  ぼそっと呟いた言葉。  それ以上何も聞くなと言われているようで聞き返せなかったが、それは小さなヤキモチのように思えた。志岐が自分を近くに感じてくれているのがわかって、椿は嬉しくなった。  志岐は椿の部屋に入ると、すぐにこたつの電源をつけて、上着も脱がずに入り込んだ。 「車から部屋まで数分だったろうが!」 「それでも冷えた! マジ寒い! 椿暖房もつけてー!」 「ああもう、お前来るようになってから電気代がかさんでしょうがねえよ」 「電気代出すからつけて」 「はいはい」  志岐にしばらく家にいてもらうとなると、電気代が馬鹿にならなそうだ。早くストーカーの件を片付けないと。 「温まったら上着脱げよ?」  キッチンの電子レンジで牛乳を温めながら、リビングに向かってそう言った。そのままホットミルクでもいいかなと思いながらあたりを見回すと、以前安売りしていて手に取ったココアが目に入った。粉末を浮かべ、スプーンで軽く混ぜる。自分の分も作って、こたつに入った。  甘ったるい香りが、部屋を包んだ。 「ココアなんて久しぶりだ」 「志岐は辛いもんが好きだもんな。甘いものは嫌い?」 「ううん。嫌いじゃないよ」  少し口を付け、志岐は「甘い」と小さく声を出した。マグカップで手を温めるように、両手で包んでいる。その姿は小さな子どものようだった。 「ココアってこんな美味かったけ」 「ん? そんな美味い? 市販の粉に普通に牛乳入れただけだけど」  椿も一口飲んでみる。うん。普通のココアだ。 「母さんが」 「ん?」 「母親が、俺が……落ち込んでるとき作ってくれたなって……。思い出して……」  最後の方は消え行くような声で、志岐は言った。志岐から家族の話を聞くのは初めてのことだった。懐かしさを滲ませる表情は一瞬で、志岐はすぐに言ったことを後悔するように、厳しい顔をして下唇を噛んだ。 「変なこと話してごめん。気にしないで」  そう言って、また唇に力を入れる。 「甘いもんとか温かいもん飲んだり食ったりするとさ、安心するよな」  噛み締める志岐の唇にそっと触れた。椿の指が触れると、志岐は驚いて唇の力を抜く。  よかった。傷ついてない。 「噛んだら痛いだろうが」  あえて軽く笑って言った。  志岐の大きな瞳が、こちらに向けられる。  志岐が、どうしてAVなどに出ているのか。それには家族や友人も、少なからず何か関係しているのだろうなと思う。  今は連絡をとっていないと思われる家族。でも今の一瞬浮かべた懐かしむ表情を見た限り、母親との関係は悪いものじゃなさそうだ。  きっと優しい思い出が、ある。 「志岐が話そうと思うまでは、深く聞かないから。口にしたいと思ったことは、言いな」  聞かないから。  だからふと思い出した優しい思い出を、無理に閉じ込めないでほしい。自分から傷つくことを選ぶ志岐が、癒やされるような思い出があるのなら、それを口にしてほしいと椿は願う。 「聞いてほしくないなら、聞かなかったことにするから」  だからその思い出を、俺の前で隠さないで。  志岐の唇が震える。椿はそれを指先で感じる。 「椿」 「何?」 「お前って、ほんと……」  震えていた唇が、笑みを作る。  それから先を言葉にしない志岐は、少しだけ椿の指先から唇を離したあと、そっと自ら触れた。  指先に、小さなキスを。 「さて、えっと、ストーカーのことだっけ?」 「は? あ、うん」  急に話を変えられ、椿はそれについていけずに混乱する。さっきのは、気のせい?  指先に触れたのは、たまたま? 当たってしまっただけか? 何か意図したものではない? いや意図したものだからって何がどうなるわけでもないけど。 「視線を感じ初めたのはこの前の雑誌が出て少しした辺りから。あ、撮られてんなと思ったのは先週くらい」  椿の動揺など気にせず、志岐は話し始める。それを聞きながら、椿もだんだん平静になる。  志岐はやはり、写真を撮られていると気がついていたか。 「事務所に写真が送られてきた」 「ああ、それがあって朝から電話してきたのか」 「他に何かされてないか? 身の危険を感じるようなことは?」 「ないよ。俺ん家にも写真は送られてきてるけど」  大したことでもないように、志岐はあっけらかんと言う。 「はあ!? 写真まで送られてきてなんで言わないんだよ!?」 「椿怒ってないって言ってたじゃねえか! 怒ってんじゃん!」 「怒ってんじゃない! その危機管理能力に疑問があるだけだ!」 「何難しい言葉使ってんだよ」  志岐は溜息を吐く。 「別にさ、隠し撮りされたからってなんだって言うんだよ? こっちは散々なとこをカメラの前で見せてるってのに。今更何をどう思うわけ?」 「仕事で撮られんのと、隠し撮りとじゃ大きく違うだろうが」 「違わない。同じだよ。むしろ隠し撮りの方がまともな写真だし」 「あのなー」  溜息を吐いたところで、気がつく。マグカップに添えられた、微かに震えている指先。椿の視線がそこに向かうのに気がついて、志岐はマグカップを置き、ぎゅっと手を握りしめた。 「平気。仕事でやってることに比べたら」  自分に言い聞かせるように、繰り返す志岐。 「志岐、強がんなくていいから」  怖かったな、と言って椿が頭をポンポンと撫でると、志岐は身体の力を抜いた。  怖いよな、誰かに見られ続けているというのは。気味悪いよな。不安だよな。我慢強くて自分から苦しむことを選ぶ志岐が桜田に漏らしたのは、よっぽど不安が強くなってたからだよな。気がついてやれなくてごめん。  そんなことを言うのは、きっと志岐は嫌がるだろうから「ごめん」という気持ちを、椿は掌に込めて志岐に触れた。 「嫌かもしれないけど、落ち着くまで俺ん家にいろ。不安だったら一緒に事務所行けばいいし。もしここも知られてたら社長がホテルとってくれるって言ってた。一人じゃ不安なら、俺も自腹切ってでも泊まるから」  安心させてやりたかった。弱音を吐けない志岐を。 「そ、んな。そんなことまでしてもらわなくったって平気だよ」 「じゃあ帰る?」 「え? いや、でも、椿は俺のこと心配なんだろ? 俺が家にいた方が安心するよね?」  ぱっと顔を上げて慌てる志岐に、思わずクスっと笑ってしまう。 「安心する。だから俺ん家いろよ」 「……椿、馬鹿にしてんだろ」 「するわけねえだろ。ほんとに心配してんの。友達だからな」  笑ってそう言うと、志岐は近くにあったクッションを抱える。何をするのかと思えば、それに顔を埋めて「熱い……」と呟いた。耳が赤くなっていて、ああ照れ臭いんだと、またおかしくなって笑ってしまった。  心配かけたくないと言いつつも、心配されるのを照れて嬉しく思っているような仕草を見せる志岐が、可愛く思えて仕方なかった。

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