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第三章 七

 すぐに志岐に電話するが、出ない。家で暇してるはずなのにと、椿は焦る。いや、たまたまかもしれない。こたつでよく居眠りしているから。  帰って、明日にはやっぱりホテルをとってもらおう。  相馬が近くにいるのだったら、自分と一緒にいるべきではないと椿は思った。ここに来たということは、相馬は今も椿に執着している可能性が高いから。  相馬は愛梨の事件で保護観察になっていたし、警察に相馬のことを話したら調べてくれるだろうと考える。  ──相馬秋良は、椿の中学、高校の一つ年下の後輩だった。中三のときにはすでに椿より背が高くなり、ひょろりとしていて不良には見えない綺麗な顔をした男だった。椿に憧れていると言って、仲間に入ってきた。  しかし、愛梨と付き合い初めて半年も過ぎた頃、椿が高二で相馬が高一の冬のことだった。  相馬が愛梨を切りつけるという事件を起こした。  その事件の辺り、相馬が無意味に他所の学校の不良に喧嘩を売ったりして、荒れているのは椿も気がついていた。しかし、それを気にして椿が声をかければ嬉しそうに寄ってくるのはいつも通りだったから、さほど気にしていなかった。  荒れていた原因がわかったのは、それからしばらく経ってからだった。相馬は愛梨を使われていない学校の倉庫に呼び出して監禁し傷つけ、椿と別れるように迫ったのだ。  椿のことを好きだと、相馬は言った。  愛梨はナイフを見せられたところで、怯む人間ではなかった。絶対に別れないと言い張り、相馬はそんな愛梨を傷つけたのだった。椿が駆けつけたときには、愛梨は倒れていて、相馬はそれを冷たく見下ろしていた。  そして告白されたのだ。「椿先輩のことがずっと好きだった。近づく愛梨先輩が許せなかった」と。  相馬は保護観察処分となり高校は退学した。  椿は罪悪感から愛梨に上手く接することができなくなり、結局別れ、学校も辞めることになった。  相馬は今二十四歳。保護観察は長くても二十歳までだったはずだ。しかも相馬は、心では何を思っていても上手く取り繕って優等生を演じられるだけの強かさがある。間違いなく今は自由の身だ。  志岐が、愛梨のように傷つけられたら。そう思うと手が震えそうになる。椿はぎゅっと握ってそれを抑え込んだ。  すでに心は傷つけられている。あんなに怖がっていた。震えていた。せっかく笑ってくれるようになったのに。AVじゃない仕事もぽつりぽつりとできるようになったのに、させてやれない。それが、自分の所為かもしれない。そんなのは嫌だ。志岐に笑っていてほしい。仕事が、傷つくためのものじゃなくなるといいと、願っていたのに。  だから、ストーカーの正体が相馬であるにしろ、そうじゃないにしろ、しばらく志岐とは離れた方がいいと椿は決心する。今のストーカーが相馬じゃなくても、いつ相馬が自分の前に現れるかわからないから。 『志岐が引退するまで、俺はずっと志岐のマネージャーでいるから』  そう言った気持ちに変わりはない。でも今は。これからもマネージャーでいるために、今は離れなければ。 「なんであいつ電話出ねえんだよ……っ」  椿は信号待ちの間に再び電話をかけるが、志岐は出ない。電源は入っている。しかし、数コールののち留守番電話になってしまうのだ。  今朝のやりとりの後に、志岐がほっつき歩くとは思えないのに。  留守番電話に、すぐに折り返すように、家からは絶対出ないように、メッセージを残す。  気持ちは急く。早く志岐の顔が見たい。その一心で自転車を走らせた。  マンションの自転車置場につき、もう一度志岐に電話をかけながら、階段を昇る。オートロックなどにはなっていない、古いマンションだ。薄暗い階段。いつもは何とも思わないそれが、今日は不穏なものに感じる。  電話に出ない志岐。  近くにいるらしい相馬。  考えれば考えるほど、悪い方向へ想像が掻き立てられる。  愛梨は自分があいつを煽ったからだと、自分も悪いところがあったからだと言ったが、愛梨の怪我は命に関わるようなものではなかった。切りつけたのは顔や腕や、足。全部見えるところだ。かっとなったのではなく、相馬は冷静に、これから愛梨が女として過ごす上で辛い思いをするようなところばかりを狙った。  そういう奴だから、怖いと思うのだ。今回のことも、相馬がやったのではないかと思うのは、相馬がそういう男だからだ。  階段で足音が反響し、上から誰かが降りてくるのがわかった。椿は足を止める。  ──嫌な、予感がする。  こういう予感は、あたる。中学のときから喧嘩ばかりしてきたから、敏感になってる。  それに、わかる。あいつ、ずっと俺の後ろをついてきてた。その足音だってわかるくらいに、いつも一緒にいた。軽やかで、俺の後ろを楽しそうについてくる、足音。  同じ音だと、椿は感じた。 「こんにちは、先輩」  ほら。  こういう予感はあたるんだ。  相馬はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、椿を見下ろして微笑んだ。ストレートの黒髪が、さらりと顔にかかる。相変わらずの整った顔。椿の記憶の中の幼い相馬より輪郭がシャープになっており、少しきつい印象になる。 「……なんでここに?」 「なんでって。あれ? わからなかった? 先輩そんな鈍くなっちゃったの?」 「なんのことだよ」 「志岐天音に見せてもらわなかった? 写真。あの倉庫の写真も混ぜといたんだけどな」  写真。志岐に送られたものも詳しく聞いておけばよかった。 「まあ、俺の仕業ってわかってたら、志岐天音を家に連れてこないか」  相馬が一段階段を降り、椿は距離をとるように同じように一段下がった。 「なんでここに来た? 志岐や俺に嫌がらせするつもりなら、姿を現さない方がよかったんじゃないか?」 「嫌がらせ? 嫌だなぁ。そんなことしないよ。嫌がらせなんかじゃなく、志岐天音を先輩のそばから消すことが目的なのに」 「……なんでだよ」  相馬はくすくすと笑う。 「なんでなんでってここでそんなにゆっくりと話してていいの? 志岐天音と連絡とれた?」 「なんでそんなこと」  まだ笑い続ける相馬がポケットから取り出したのは、椿にも見覚えのある携帯電話だった。 「先輩何度もかけてくるんだもん。留守番電話も入ってたね。それで俺だって先輩もやっとわかったんだなあってわかった。だからお出迎え」  どういうことだ。どうしてあいつが志岐の携帯を持っている? どうして上から……俺の部屋の方から降りてきた?  椿の額には汗が浮かぶ。嫌な予感がこれ以上ないほどに強くなった。 「志岐に、何をした?」 「さて何でしょう?」  階段を駆け上がり、相馬を押しのけようとして、腕を取られる。それを振りほどき、睨みつけた。 「部屋にはいないよ。彼は俺と一緒に来てもらった」 「……どういうことだ」 「んー? 拉致ってこと?」  そう言って、相馬は目を細める。 「ねえ先輩。着いて来てくれたら返してあげる。着いて来なかったら、愛梨先輩と同じ目に合わせる。いや、男だしねえ。もっと容赦できないかな。綺麗な顔だけど、勿体無いね」  椿に選択肢はなかった。  相馬が運転する車の助手席に座る。隣にいる椿を見て、相馬は嬉しそうに笑った。  中学のとき、子分にしてほしいと言ってきた、あの無邪気な笑顔と変わらない。それなのに。 「あ、これ返しとくね」  そう言って掌に志岐の携帯を落とされる。 「警戒心あるようでない子だね。部屋のインターホン鳴らしても全然反応しなかったのにさ、椿さんの高校の後輩ですって言ったら、即ドア開けてくれたよ」 「……警戒心がないわけじゃねえよ。あいつはとことん人見知りだし無愛想だ」  椿の家にいる以上、迷惑をかけないようにしなくてはと思ったに違いないと、椿は確信する。  普段だったら絶対知らない奴が来てもドアなんて開けないのに。椿の知り合いに居留守を使ったら迷惑がかかるとか、余計なことを考えたに違いない。 「なんで直接俺に会いにこないで志岐に」 「先輩には会うつもりだったよ? でも俺は先輩に会えれば満足ってわけじゃない。知ってるよね?」  知っていた。相馬は高校のときだって、椿の一番近くにいた。でもそれでは、満足できなかったと言ったのだ。愛梨がいることが、気に入らないと。 「こうやって、一生先輩の大切な人を傷つけるよ」  なんで。  なんでだよ。  知ってた。相馬が自分に執着していること。何年経っても、相馬が見ているかもしれないと思って生きてきた。だから恋人も作らなかったし、地元の友達にも自分がどこにいるか知らせないようにしてきた。 「しつこい、お前」 「はは、知ってる知ってる」 「ずっと俺を探してたわけ?」 「見つけたのは二年くらい前かな」 「二年……」  二年間見てたわけ? 「愛梨先輩とも会うようになったね」  ぴくりと、手が震えるのを隠すことはできなかった。 「何もしないよ、愛梨先輩には。もう先輩が愛梨先輩と付き合うことはないだろうから」 「俺が誰かと付き合うのが気に食わないわけ? それならなんで志岐を。志岐は俺の仕事のパートナーだ。恋人でもなんでもない」  椿の問いに相馬が答えることはなく、車を走らせ始めた。

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