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第三章 九

 ──椿が高二になって、相馬が入学してきた。中学のときと同じように、椿の近くにいつもいた。授業には出ろと言うと、授業が終わると一目散に駆けてくるようになって、それを可愛く思っていた。  ただ中学の時と違うのは、椿より背が高くなって、たまに大人っぽい憂いた顔をするようになったこと。  放課後、屋上でわいわいいつものメンバーとつるんでいると、相馬はその日も駆けてきた。 「椿先輩! ジューズ買ってきましたよ」 「相馬? そういうのいいって言ったじゃん」 「いいんです。先輩は番長ですもん」 「……やめて。番長言うな。リーダーとか言って」 「リーダー? それはそれで馬鹿っぽいですね」 「お前俺のこと慕ってんの!? 馬鹿にしてんの!?」  相馬が小さく笑う。  ほら、こういう顔。こういう顔、高校生になってから見せるようになった。 「お慕いしてますよ、椿由人さん」  静かな声に、時が止まったように感じた。  慇懃な物言いは高校一年生の、しかも、椿たちのような不良の中では酷く場違いだったのだが、相馬は黙っていれば上品に見える整った顔をしていたから、似合っていた。  ふざけてると思ったら急に真面目な声を出されて、動揺したのを覚えてる──。  ◇ 「いって……」  目が覚めると、眩しかった屋上の風景からは一転、薄暗い空間と埃が積もるコンクリートの地面が目に入った。 「先輩細くなりましたね。鍛えてないでしょ」  声がどこか遠い。感覚が、確かに背中と腹に痛みは感じるが、どこか遠い。 「……お前、なんかした?」  手足が動かせなくて、縛られていることに気がついた。這いつくばった状態で、地面に頬を引っ付けながら口を動かす。 「志岐天音と同じの、睡眠薬。大丈夫だよ。半分に割ったからさ、そんなに効いてないと思う。縛ってる間に暴れられたら困るからってだけだったしね」  ちゃんと飲んでくれなかったし、もう効き目は切れる頃だと思う、と相馬は笑った。 「あれ事務所の番号? 電話したら社長っぽい人が出て、それから志岐と話したよ。間違って俺の荷物に携帯が入ってたみたいって、言っといた。君が寝ちゃって困ってたら先輩が帰ってきて、今一緒にいるから大丈夫って、言っといたよ」  助けは望めない、か。 「……何がしたいんだよ」 「何がしたいんだろ」 「俺のこと殴りたかった?」 「まさか。どっちかって言えば殴られたかったかな」  なぜ。そんな、自分が傷つけられることを望むような、志岐みたいなことを言う。 「……なんで志岐に嫌がらせした? 俺と志岐が一緒にいることが気にいらないなら、俺に言えばいいことだろ。今みたいに殴って、薬でも飲ませて閉じ込めでもすれば済むことだろ」 「いや、いいなあって。愛梨先輩の時と同じだよ。ああ違うな」 「何?」 「あのときはさ、単純に愛梨先輩に嫉妬してたんだ。女っていいなあって。でもさ、知ったんだよ。別に男でもいいんじゃんって」  相馬が近づいてくる。その足先が見えて、無理矢理顔を上げて睨みつける。  相馬は楽しそうに笑いながら、すっと椿の目の前にしゃがんだ。 「ねえ、すぐにわかったよ、先輩だって。ああいうことするんだ、先輩」  あの、自慰動画のことを言われているのだと気がついた。  相馬の顔が近づいてきて、顔を背ける。  ……解けねえかなと、あえて椿は相馬自身にではなく自分の置かれた状況に目を向けようとする。何か紐のようなもので手首と足首が縛られている。 「解かないよ。先輩手も足も出てくるからさ、本気出されたら敵わないもん」  クスクスと笑う相馬の息遣いが、頬にあたる。 「あれってゲイ向けの動画だよね? 先輩男でもよかったんだ? 男相手にああいうことしてたんだ。だったら」  苦しそうな、絞り出す声。  それを聞いて、相馬に意識が向いてしまう。 「俺でもいいじゃん。抱かせてよ」 「相馬、」 「男でもいいなら、俺でもいいだろ? 先輩……」 「あれはっ、事務所のためにやったことだ……! 男にそういう感情は、持てない……っ」  男に、相馬に、恋愛感情は持てない。考えられない。セックスするなんて。ましてや、抱かれる? 志岐がいつもやっているように? できない。できるわけがない。  相馬は顔を上げる。その気配に、椿は相馬を再び見上げた。  相馬は笑っていた。しかし、その笑顔は今まで見てきた薄ら笑いではない。  なぜ、志岐と重なって見える?  自分を傷つけているような、笑顔だった。 「何? 同情してる? 同情したって抱かせてくれないくせに」 「同情なんかしてない」  できない。  相馬は愛梨を傷つけた。志岐のことも。  自分なんかを好きになって、可哀想だと思う。でも、それよりも大切な人を傷つけられた怒りの方が、椿の中で上回っていた。 「そうだよな。同情するのは先輩らしくない」  相馬の笑顔から、温度が失われる。冷たい笑顔に変わる。 「抱かせてくれたら、志岐天音に、もう手は出さない」 「……何だって?」 「俺に抱かせてくれるなら、志岐天音にはもう、何もしない。先輩がマネージャーを続けていたとしても」  畳み掛けるように、相馬は言葉を重ねる。 「志岐天音のマネージャーでいたいんでしょ? このままだったら先輩はやめなくちゃならない。ねえ、良い条件でしょ?」 「何が、どこが……っ」 「先輩が断るなら、今ここに先輩を置いてすぐにでも志岐天音のところに行く」  身体が震えるのを隠すことはできなかった。それに舌打ちし、椿は手首を縛られたまま肘を着く。そこに体重をかけ、ゆっくりと身体を起こす。 「志岐に何かしたら、許さない」  許さない。  傷つけさせない。絶対に。今度は守る。  情けない姿で起き上がりながら睨み続ける椿を、相馬は嘲るように見下ろした。 「なら簡単だね。俺とセックスしてくれればいいだけじゃん」 「お前、何かしてももう未成年でもねえんだから、ただじゃ済まないだろ」 「別に捕まろうがかまわないよ。その間先輩を見ることができないのは寂しいけど。事件になって困るのは、俺、先輩、志岐天音の誰でしょう?」  唇を噛む。  困るのは、志岐だけだ。 「俺がお前の好きにさせたら、本当に志岐に手出ししないのか」 「しないよ。でもさあ、ここで俺の言うことを信じるも信じないも同じでしょ? 信じなくてもいいけど、そしたら即、俺は志岐天音のところに行くし」  選択の余地はない。  相馬が触れてくるのを、椿は抵抗せずに受け入れた。

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