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第三章 十

 ◇ 「椿っ」  椿がドアを開けるとすぐ、志岐は玄関まで駆けて来た。もう時刻は午前三時を回り、志岐はすでに眠っていると思っていたのに。 「俺に外に出るなとか言って、お前はどこに行ってたんだよ。あの相馬って友達とずっと一緒にいたのか?」 「ああ……ごめん。高校以来だったから、話し込んじまって。これ、携帯。悪かったな」  相馬から返された携帯を、志岐に手渡す。 「え、いや、別に。事務所と桜田と椿以外、連絡先も登録してないから。相馬って人が気づいたらいなくて、携帯もなくなってたから焦って社長に連絡した。こっちこそなんか大事にしてごめん」  椿が素直に謝れば、志岐も素直に言葉を返してくれる。生意気だけど、素直な奴なんだと思う。  その素直さに、緊張していた心が緩む。 「椿? お前、どうした?」  これは、隠さなきゃならないこと。 「よく見たら汚れてないか?」  志岐に背を向けて、転んだと言って靴を脱ぐ。部屋に上がろうと振り返ると、志岐は訝しげに眉を寄せていた。椿はそれに笑って返す。 「怪我とかしてねえから、心配すんな」  疲れた。早く眠ってしまいたい。相馬に飲まされた睡眠薬が残ってるのかもしれない。  志岐の方は……大丈夫そうだ。椿を見る瞳は明るく、体調は問題なさそうだ。 「なあ、椿、お前絶対変だ」 「……失礼な奴だな」 「嘘の笑顔」  どきりとした。  確かにさっき、自分が浮かべたのは。 「実はな、相馬とは高校のときごちゃごちゃあって。だからちょっと気疲れしちまったんだ。ちょびっと殴り合いなんかもしたりして……」 「殴り合い!?」 「あ、俺たちからすればじゃれあいみたいなもんな」 「いい大人が何やってんだよ……」  志岐は呆れたように、椿に背を向けてリビングへと歩いて行く。  ……志岐と一緒にいたい。マネージャーを続けたい。自分のごたごたに巻き込みたくない。  だから、ごめんな。せっかくお前が俺の気持ちを汲み取ろうとしてくれたのに、嘘で返してごめん。  ──相馬のものをしゃぶった。  もちろん男の性器を口に入れるなんて初めてのことで、何度もむせた。むせるから、あまり奥までは咥えられない。ちろちろと舌を這わせるばかりだった。  相馬はその間、ずっと椿の頭を撫でたり髪を梳いたりしていた。 「下手だね。全然気持ちよくない」 「……当たり前だ」  椅子に座る相馬の足の間に身置いてぺたりと座っていた椿は、声をかけられて顔を上げた。  どれくらいしゃぶっていたのだろう。顎が痛い。 「変な感じ。先輩が俺の前で跪いてるなんて」 「立ってできるか」 「いやそういうことじゃなくて」  もういいよと言われ、立ち上がった。相馬はちっとも勃起していないそれをしまった。  長時間座っていたせいで足が痺れていて、ふらつくと相馬に支えられた。 「大丈夫? 先輩?」  ……何なんだ、こいつ。  まるで何事もなかったかのように、心から心配するような表情を浮かべる相馬に、椿は少し戸惑う。 「やっぱ外でするべきじゃなかったね。寒い」 「お前がここでしゃぶれっつったんだろうが」 「先輩が何でもさせてくれると思ったら我慢できなくて。それに先輩もっと上手いと思ったからさ。やってるうちに熱くなると思ったら、それどころじゃないんだもん」  やれやれと、今度は呆れたような顔をされる。 「またね。今度は先輩の家行ってもいい?」  耳元で囁かれ、びくりと震えた。  家? 志岐がいる、家。  志岐を思い出し、酷く家が恋しくなってしまった。  あいつまたこたつに入ってるだろうな。夕飯は食べたかな? カップ麺があったから、それで済ませたかも。明日はちゃんとしたものを食わせられるだろうか。  ……相馬に呼び出されなければ可能か。 「本当に、志岐には手を出さないんだな?」 「先輩が言うことを聞いてくれてる間はね」  目を細めて、相馬は椿の頬に手を伸ばした。 「ああ、ずっと触れたかった」  冷たい手が、頬を撫でる。  避けたかったが、相馬がすることを止めることができない椿は、せめてもと無表情を貫き通した。 「先輩、先輩……」  縋るように繰り返し呼ばれ、そして繰り返し、相馬は椿に口づけた。  ◇  十二月に入った。節約を今月の目標に掲げている事務所は、タレントが来ていないときには暖房を切っており、とにかく寒かった。  飯塚が「年寄りにはキツイ」とか言ってうるさいので、椿は熱いコーヒーを淹れた。 「どうも。志岐には何もない?」  デスクでそれを受け取りながら、飯塚がふと思い出したように言う。 「この二週間、何もないです」  相馬と再会してから二週間、志岐への嫌がらせは確かに止んでいた。  社長とも話し、そろそろ仕事を再開させることになっている。明日は桜田が相手のAVの撮影がある。 「仕事再開してどうなのかってのが問題だよな」 「そうですね……」  飯塚がコーヒーを啜りながら渋い顔を作るが、椿にはわかっていた。志岐に対する嫌がらせはもうないと。  ──自分が相馬の好きにさせてるから。 「ま、それで何もなかったら椿ちゃんも元気になるかねえ?」 「へ?」  自分のデスクに着こうとしていた椿は、急に自分の話になったことに驚いて動きを止めた。 「俺、ですか? 俺は別に何もないっすよ」 「そうかねえ? なんっかいつものお馬鹿さん加減が足りねえ気がすんだよなあ」 「なんすか、それ」  営業行ってこようかなと考え始める。  飯塚とは長い付き合いだから、勘付かれるような気がした。 「何かあったら言えよ、椿」 「ありがとうございます。相談します」  心にもないことを言って、椿は笑って事務所を出た。  階段を降りてビルから出たところで溜息を吐いて、腕に引っ掛けて出てきたコートをきちんと着る。  営業と言っても、志岐が仕事をセーブしている状態で売り込みも何もない。まあ、このままストーカー事件は治まるのだし、AV以外の仕事を探す時間に充ててもいいかもしれない。  志岐が以前一般の雑誌に載った時に声をかけてくれた編集者がいた。先日また連絡をくれたのだが、そのときはまだ仕事を再開していなかったから保留にしていた。ここから出版社まで近いし、直接行ってみようか。  連絡先を見てみようと椿が携帯を取り出したとき、メールが着ていることに気がついた。 『今日夕飯用意する』  短いメールは志岐からのものだった。  志岐とはこの二週間同居している。相馬のことは話せないため、まだストーカーを警戒してるという形を見せていたからだった。  志岐は自分が仕事ができないことで椿の仕事が無くなり、事務所をクビになったりしないのかということを心配しているらしい。葉山社長がそんなことをするわけがないのだが、真面目な顔で社長に「仕事が再開できたら何でも引き受けるから椿をクビにしないでほしい」なんて言ったらしい。  夕飯も、志岐が用意するとは言ってもカップ麺の湯を沸かしたり、冷凍食品を温めたりするくらいのことしかできない。  そんな志岐の不器用さが、椿を癒やした。

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