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第三章 十二
◇
「椿君、何があった?」
翌日、撮影が終わり志岐がシャワーを浴びているときだった。先に帰る仕度が終わった桜田が、椿を呼び止めた。
控室には椿と桜田の二人きり。椅子に座った桜田は、まっすぐに椿を見つめている。椿はそれから目を逸し、志岐が出てきたらすぐに帰れるように片付けをする手を再び動かし始めた。
「何があった、って、何ですか? 何もないですよ。何もないから、志岐も仕事を再開させたんじゃないですか」
「あめには何もなかったんだろう。でも椿君に何かあったんじゃないの?」
「……何のことです?」
声が固くなってしまったのには、気がつかれただろう。
桜田は立ち上がった。
椿は何も気がついていないふりをして、手を動かし続ける。
……志岐、早く出てこねえかな。
「椿君、顔を上げて」
「……何ですか」
正面に立った桜田を見上げる。いつも優しげに細められる瞳が、今は椿を睨むようにして見ている。
「そんな怖い顔して」
「誤魔化さないで。ちゃんと話せ」
いつになく厳しい口調。それを聞き、椿の心はざわりと逆立つ。
「なんであんたに話すんですか」
「やっぱり何かあったんだな。気づいてる? 今の椿君は少し前のあめと同じだ。何かおかしいと心配している人がいるのに、話さず拒否して、でも拒否しきれずに、余計に心配かけてる」
わかってる。わかってんだよ。けれど話せることじゃない。……そうか。志岐と同じだ。志岐も俺に「話せない」と言った。
「……自覚あり、なんだね」
桜田は溜息を吐く。厳しかった目元が、緩む。
「椿君の笑顔が、見たいよ」
そう言って、そっと抱きしめられた。驚いたけど、何となく人の温もりを感じたくて、椿は身体を離さなかった。
「俺にできることはない?」
「ないっす」
「即答?」
残念そうな声が、耳元で聞こえる。桜田の甘い声に、椿の逆立った心が凪ぐ。
「明日から三日間、俺休み貰ってるんです。ちょっと疲れが溜まってて体調も良くなくて。志岐にも家に帰ってもらうので、その間頼みます」
「俺にあめを頼むの? ヤっちゃうよ?」
「俺のためだと思って、ヤらないで一緒にいてやってください」
「ずるい言い方」
ふふっと笑った桜田が、身体を離す。離れる前に、一度ぎゅっと抱きしめられる。
「ありがとうございます」
「あ、やっと笑った。今日、ずっと顔が強張ってたから」
なんでこの人は、自分が笑ったくらいでこんなに嬉しそうな顔をするんだろうと、椿は不思議になる。
「三日休んだら、元に戻りますから。そしたら、また家に来てください。志岐も一緒に、飯でも食いましょ」
「おお、椿君からのお誘い。楽しみにしてる」
「一つ、聞いてもいいですか?」
こんなことを聞くのは、失礼極まりないと思う。しかし、確かめたくて。
「桜田さんは、俺のこと……その、本気、なんですか……?」
桜田は目を真ん丸くする。それから、眉を下げて微笑んだ。
「こういう仕事してる俺が言うのは信用ならないかもしれないけど、本気だよ」
「志岐のことは……?」
「あめは大事な友達」
「……わかりました」
椿がそう答えると、桜田は吹き出した。
「はは、告白の返事がわかりましたって」
「あ、すんません」
「いいよ。椿君らしい。まあ俺の場合、本気だから付き合いたいとかじゃないからさ」
「え、そうなんですか?」
それってどういうことだ? 付き合いたいわけじゃない? 眉を寄せた椿を、桜田は可笑しそうに見ている。
「付き合ったとしても、俺はこの仕事を辞められないしね。そんなの誰でも嫌でしょ? だから付き合わなくていいんだ。でも好きだから、エッチはしたいってこと」
「わかりにくいな……桜田さん志岐とも仕事じゃなくてもヤろうとするじゃないですか。それとの違いって何なんすか?」
「えー、全然違うじゃん。気持ちが通じ合ってするエッチと、仕事のエッチ、友達とするエッチ」
「最初のしかわかりませんから!」
……しかし、わかることもある。気持ちがないセックスは、今椿がやっていることだ。それは苦痛でしかない。
「また顔が曇ったね」
「え?」
椿が聞き返したとき、控室のドアが開いた。
「お待た……せ」
志岐はつかつかと入ってきて、椿と桜田の間に身体を滑り込ませる。
「椿に何かしたら、フェラついでに食いちぎるって言ったよな?」
「何もしてないしぃ。お話してただけだしぃ」
「そのムカつく口から噛みついてやろうか」
「もー、椿君からあめに言ってやってよー」
志岐も俺に何か感じているのだろうか。
椿は今日の志岐の様子を思い返す。自分を近くに置きたがり、まるで、桜田や相変わらずAV出演を誘ってくる監督から、守ってくれようとしているかのようだったなと。
「志岐、ほんと話してただけ。ほら、帰るぞ」
「話してただけって、じゃあなんでそんな顔……」
何かを言いかけて、志岐は口を噤む。何かをぐっと我慢して、椿の言葉に従ってドアの方へ向かう。
椿は桜田に頭を下げて挨拶して、志岐の後に続いて控室を出た。
夕食は簡単にレストランで済ませた。食べている間、何度か志岐は何か言いたげに椿の顔を見たが、言葉にならなかったのか、また口を噤んだ。
声をかけてやりたいと思う。だけど、それで自分が何を話せるわけでもない。椿は気づかないふりをして、いつもどおりに振る舞うしかなかった。
車で志岐を家まで送る。
明日から少し休みたいと言って、社長に三日間休みをもらった。だから今日の仕事が終わったら、志岐を自宅に送っていくことになっていた。
「じゃ、今日はお疲れ」
「あ、うん」
家の前で車を止めると、志岐はゆっくりとした動作でシートベルトを外した。
「久しぶりだったけど、身体は大丈夫か?」
「ん。平気。桜田だし」
「あいつ優しいもんな」
他意なく言ったのだが、志岐はなぜかぱっと椿の顔を見た。
「椿」
「……何?」
すぐ聞き返せなかったのは、聞かれたら困るからだ。志岐に、踏み込んでほしくなかったから。
志岐はそれを感じたのだろう。
口をきゅっと引き結んで、椿から目を逸らした。
助手席のドアが開き、冷たい空気が車内を満たす。志岐が足を下ろしたのを見て、椿はまた「じゃあ、おやすみ」と言おうとした。しかし、志岐の動きがふと止まったのを見て、言葉を飲み込んだ。
志岐はゆっくりと、振り返る。
「桜田の方が、話しやすいのかもしれないけど……俺は、椿が話したくなるまで、待ってるから。だからいつか、話して。友人として、死ぬほど心配するから」
そう言った志岐の姿が、月明かりに浮かぶ。綺麗な瞳が、椿を射抜く。
食事をしているときからずっと、それが言いたかったのか。不器用な志岐が、散々考えて逡巡して、やっと言えた言葉だったのだろう。
それはかつて自分が言った言葉だった。志岐に返される日がくるなんて、思わなかった。
それから背を向けて、志岐は車から降りていく。しかしその背中が、ぴたりと止まる。「え」と言って再び振り返った。
「ど、した?」
「どうしたって、お前……」
言われて見れば、無意識に志岐のコートの裾を、椿が握って引き止めていた。
「あ、ごめん」
慌てて手を放す。
何してんだ、俺。
「俺やっぱ今日も椿ん家に泊まってく」
そう言うと志岐は助手席に座り直し、ドアを閉める。シートベルトまで締めてしまった。
椿はなんとか止めようと言い訳をする。
「ごめん。何でもないから。ほんと疲れてるだけだから、無意識」
「休みとってるのは明日からだろ? 明日の朝帰るから、今日は泊まらせろ」
「志岐」
咎めるように言うと、志岐は睨んできた。
「椿由人。俺は事務所の方針に従って椿の家に泊まって外出も控えた。一日くらい俺の希望が通ってもいいはずだ」
そう言われてしまうと何も言い返せず、結局志岐と一緒に家に帰るしかなかった。家に着くまでの間、志岐は黙り込んでいた。
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