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第三章 十三
椿の家に着くと、志岐はもう勝手知ったるというように上がり込む。自分で風呂の湯まで溜め始めた。そうして上着を着たまま暖房をつけてこたつに入る。ここ二週間の見慣れた光景だった。
「椿ぃ、今日一緒に寝よ」
「は?」
「一緒にベッドで寝よ」
二週間、眠るときは志岐にベッドを譲り、椿はリビングのソファで眠っていた。背もたれを倒してベッドのようになるタイプのものだったから。
こたつで丸くなる背中に、椿は少し焦って聞き返す。
「何言ってんだ、お前」
「ソファなんかで寝てたから体調崩したんだきっと! 疲れてるならベッドで寝た方がいい」
「だからって一緒に寝るってのは……」
「だから俺がソファで寝るって言ってるじゃん」
「お前が風邪引いたらどうすんだ!」
「だから一緒に寝るしかないんだろ!」
押し問答の末、結局折れたのは椿だった。
先に風呂に入らせて寝かせて、こっそりソファで寝ようと思ったのだが、志岐は撮影で疲れているはずなのに、椿がベッドに入るまで意地でも眠らないようにしているようだった。
椿が風呂から出てくると、こっくりこっくりとこたつでうたた寝をしていた。
「しーき、風邪引くからこたつで寝んな。寝てろって言ったろ」
声をかけると、志岐は目をこすりながら顔を上げた。
「寝る……? 椿」
「髪乾かしたらな。だから先ベッド行け」
「行ったら寝ちまう……」
「寝ろって。桜田相手とはいえ、疲れただろ? 久しぶりの撮影だったんだし」
「俺が寝たら絶対椿ベッド来ないだろ」
志岐との付き合いも長くなってきたしな。俺の考えていることがわかってもおかしくないか。
見抜かれていることがわかり、椿は思わず苦笑する。
「行くから。ちゃんとベッドに」
一日くらいいいか。男同士で寝たところで、志岐がゲイだって、どっちもその気じゃなかったら、どうにかなる訳でもないんだし。
「ほんとだな?」
「ほんとほんと」
「じゃあ寝てる……」
志岐はよたよたと立ち上がり、ベッドに向かった。
あんなに眠そうなのに、意地っ張りだな、あいつ。
椿の顔にまた笑みが溢れる。
自分が無意識に見せてしまった弱さを、志岐はからかうことなく受け止めてくれている。何も聞かずに、弱っているように見えているらしい自分と、一緒にいてくれようとしている。
それはとても、温かく嬉しいものだと思う。
髪を乾かして寝室に行くと、志岐は眠っていた。
ベッドの横に立つ。
綺麗な寝顔だと思った。ベッドサイドランプの灯りの下に浮かぶ表情は穏やかで、椿の心を和ませる。
以前、寝ているときの方が幼いと感じた顔は、今は起きているときとの差を感じなくなった。それは志岐が起きている間も、穏やかな表情をするようになったからかもしれない。
きっと自分がベッドに入ったら目を覚ましてしまうだろう。そう思うと、椿はベッドに入ることを躊躇った。でも起きたとき自分がベッドの中にいなかったら、志岐はめちゃくちゃ怒るんだろうなとも思う。
それでもその穏やかな顔をしばらく見ていたくて、椿はその場に膝を着く。ベッドに頭だけ預け、志岐の寝顔を近くで見ていた。
この穏やかな今に浸っていると、明日自分の身に起こることが信じられない。明日、自分が相馬に犯されるなんて。
大したことじゃない。俺は男なんだし。忘れられないように傷めつけると言っていたけど、生憎俺は痛みに強いし、きっと堪えられる。本当に怪我をさせられそうな身の危険を感じたら、殴って逃げればいいし。大丈夫。恐怖なんか感じてたまるか。
椿はそう何度も自分に言い聞かせた。
「椿……?」
はっと気がつけば、志岐が目を開けていた。
「悪い……起こしたか?」
何となく、椿は体勢を変えずに応えた。志岐も起き上がらないから、距離は吐息も感じるほど、近い。
「椿、ほんとに、体調悪い……?」
もちろん、風邪などではない。しかし昨日相馬に無理された所為で、身体のあちこちが痛いのは本当だった。
「少し、な」
もぞもぞと志岐が動き、すっと椿の額に手をあてた。冷たい手だった。
「少し、熱ある……?」
熱があるのだとしたら、それはきっと昨日腸を擦られた所為で炎症を起こしているからだろう。
「大丈夫だよ」
心配してくれる志岐に申し訳なくなって、椿は苦笑して答えた。
志岐はもぞもぞと再び動き、壁際に寄ってくれる。
「早く布団入れ」
「わかったわかった」
椿はそう言って、ようやく立ち上がった。志岐が寝ていたベッドの中は、温もりに溢れていて暖かかった。
「こっち向いて寝るのかよ」
「悪いか」
志岐は壁の方ではなく、椿の方を向いている。背を向けるのもおかしい気がして、椿も志岐の方を向いた。
お互い何も言わず、時計の音だけがいやに響く。
「目、覚めた」
「黙って目ぇ瞑ってたら眠くなるだろ」
そう答えたが、志岐は瞳を閉じる様子を見せない。
「俺寝るよ?」
「いいよ。おやすみ」
そう言われても。そうじっと見られていては寝難いことこの上ない。椿は溜息を吐く。
「黙って見てるなよ。起きてるならなんか喋ってくれ」
「何かって何を?」
「……子守唄とか?」
そうでも言えば志岐も呆れて眠るかと思ったのだ。しかし志岐は、椿の顔をじっと見たまま何か考えこんでいる。
少しして自分から目が逸れたのを感じ、椿はまた一息吐いて目を瞑った。今のうちに眠ってしまおうと思ったのだ。
その時──
椿にとって聞き慣れたメロディが聞こえた。
Ameの曲だ。静かな、音の少ない、子守唄のような曲だった。何かのカップリング曲だったはずと思い出す。
志岐が歌っていた。
音量を抑えた、掠れた声。しかし、透明感のある澄んだ歌声だった。
それが、椿の胸に染みこんでくる。
志岐は椿を落ち着かせるように、小さな声でただ優しく、寄り添うようにそっと、歌う。
なぜだろう。Ameの歌だからとかじゃない。涙が、溢れた。その寄り添う声に。
歌いながら、志岐は椿の頭に手を伸ばした。静かに髪を梳く。
──泣けば、きっと心配させると思った。
自分は志岐のマネージャーだから、自分の所為で志岐が心を乱すようなことがあってはならないと思った。志岐が椿に心配させないようにすることとは違う。椿の義務で、あるべき姿のはずだ。
そう、気負ってきたはずなのに。
志岐は、椿の涙を見て微笑んだ。心配して椿と一緒に弱くなるのではなく、包み込むような笑顔を見せる。
自分の方が年上なのに、まるで弟にでもなったかのような気分になった。
不思議な声だ。Ameの歌はキーが高く、志岐は音を下げて歌っているのに、その歌の印象は、Ameが歌うものと変わらない。自分の辛さや、苦しさは感じさせず、ただ聞く者への労りや愛情だけを滲ませる。
ずっと聞いていたいと思った。聞いていたら、痛みも苦しみも全部消えていくような気がして。
溢れる涙が、心の汚されたと思った部分を、洗い流してくれているように感じた。
やがて、歌が終わる。
髪を梳く手も、その動きを止める。
言葉を待つ時間は気まずいものであるはずなのに、今それを感じることはない。
先ほど冷たいと感じた手が、今は温かい。髪から、椿の頬にその温かい手が移動した。
「……眠れそう……?」
「うん……」
涙の理由を聞くこともなく、志岐はただ微笑んで問う。
椿の涙を指で拭い、また歌い始めた。
今度は椿の知らない歌だ。歌詞もない。鼻歌のように、メロディだけを口ずさむ。
その歌声を聞きながら、椿は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
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